日韓基本条約
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日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約

通称・略称日韓基本条約
署名1965年6月22日
署名場所東京
発効1965年12月18日
締約国 日本、 大韓民国
文献情報昭和40年12月18日官報号外第135号条約第25号
言語日本語、朝鮮語、英語
主な内容日韓併合条約の失効、日本国大韓民国間の国交正常化や経済協力など
関連条約

日韓請求権並びに経済協力協定

日韓法的地位協定

日韓漁業協定

文化財及び文化協力に関する協定

日韓紛争解決交換公文

条文リンク日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約 (PDF) - 外務省
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日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約(にほんこくとだいかんみんこくとのあいだのきほんかんけいにかんするじょうやく、: ????? ??? ?? ?? ??? ?? ?? 〈大韓民國? 日本國 間? 基本關係? 關? 條約〉)は、1965年昭和40年)6月22日日本大韓民国との間で結ばれた条約。通称日韓基本条約。12月18日、ソウルで批准書が交換され発効した。
概要日韓基本条約締結時の大統領である朴正煕日韓基本条約締結時の総理大臣である佐藤栄作

当条約では、1910年明治43年)に発効した日韓併合条約は「もはや無効」であることを確認し、日韓併合により消滅していた両国の国交の回復、大韓民国政府が朝鮮半島における「唯一の合法的な政府」であることが合意された。また当条約と付随協約により、日本が朝鮮半島に残したインフラ・資産・権利を放棄し、当時の韓国の国家予算の2年分以上の資金を提供することで、日韓国交樹立、日本の韓国に対する経済協力、日本の対韓請求権と韓国の対日請求権という両国間の請求権の完全かつ最終的な解決、それらに基づく日韓関係正常化などが取り決められた。なお当時の東西冷戦を背景に、当条約締結のための日韓交渉はアメリカ合衆国が仲介を行い、また朝鮮民主主義人民共和国は当条約を「無効」と主張している。日本は韓国に対し、10年間で無償3億ドル、有償2億ドルの合計5億ドルの資金提供を行い、相互に請求権を放棄することで合意した(日韓請求権協定)。しかし、最終的に日本は約11億ドルの経済援助を行った。韓国は日本からのこの請求権資金援助金や米国からの朝鮮戦争後1954年から1970年の無償分のみでも18億7650万ドルの資金援助で浦項総合製鉄昭陽江ダム京釜高速道路漢江鉄橋、嶺東火力発電所などが建設されたこと、10億ドル以上ともいわれるベトナム戦争特需などにより、最貧国から一転して経済発展した[1]

一部は韓国でも補償が行われたものの、日韓基本条約によって日本から受けた資金(当時5億ドル)は無償援助3億ドルも含め、経済発展資金にあてられており、2014年韓国において補償を求める者が韓国政府を訴える裁判となったが[2]、日韓請求権協定で受け取った資金が産業育成やインフラ整備などの目的に使用されたことについて「法律に沿うもので違法行為とは見ることはできない」などの理由で、韓国政府に対する訴えでは原告は棄却や敗訴している[3][4]。一方で、責任企業に対する個人それぞれの個人請求権は消えたわけではないとして責任企業に対する賠償要求は認める判決が、2012年や2018年に韓国の最高裁から出されている[5][6][7]
条約交渉までの経緯
「戦勝国」としての請求「日本国との平和条約」および「日本の戦争賠償と戦後補償」を参照

1949年3月、韓国政府は『対日賠償要求調書』では、日本が朝鮮に残した現物返還以外に21億ドルの賠償を要求することができると算定していた[8]。韓国政府は「日本が韓国に21億ドル(当時)+各種現物返還をおこなうこと」を内容とする対日賠償要求を連合国軍最高司令官総司令部に提出した。

日韓基本条約締結のための交渉の際にも同様の立場を継承したうえで、韓国側は対日戦勝国、つまり連合国の一員であるとの立場を主張し、日本に戦争賠償金を要求した。さらに1951年1月26日、李承晩大統領は「対日講和会議に対する韓国政府の方針」を発表し、サンフランシスコ講和会議参加への希望を表明した[8]

また、韓国は対日講和条約である日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)の締結時も戦勝国(連合国[注釈 1])としての署名参加を米国務省に要求したが、アメリカ合衆国やイギリスによって拒否された[9][10]。日本も「もし韓国が署名すれば、100万人の在日朝鮮人が連合国人として補償を受ける権利を取得することになる」として反対、アメリカも日本の見解を受け入れた[8]

1951年(昭和26年)7月9日ジョン・フォスター・ダレス国務長官顧問は梁駐米韓国大使に対して「日本と戦争状態にあり、かつ1942年1月の連合国共同宣言の署名国である国のみが条約に署名するので、韓国政府は条約の署名国にはならない」と述べた[9]。梁駐米韓国大使は「大韓民国臨時政府は、第二次世界大戦に先立つ何年も前から日本と戦争状態にあった」と反論した[9]。アメリカは「朝鮮は大戦中は実質的に日本の一部として日本の軍事力に寄与した」ため、韓国を対日平和条約の署名国からはずした理由とした[9]

韓国側はこうしたアメリカ側の判断を受け入れがたいとみなし、韓国側は「韓国の参加を排除したことは非合理性が犯す非道さの極まり」と非難した[8]兪鎮午日韓会談代表は1951年(昭和26年)7月30日に発表した論文で「韓国を連合国から除外する今次の草案の態度自体からして不当だ。第二次世界大戦中に韓国人(朝鮮人)で構成された組織的兵力(抗日パルチザン)が中国領域で日本軍と交戦した事実は、韓国を連合国の中に置かねばならないという我々の主張の正当性を証明している」と主張した[9]

最終的に、1951年9月8日の日本国との平和条約調印式に韓国の参加は許可されなかった[9]

一方、参加リストから外された後も韓国はアメリカに使節団を派遣し、解放後の朝鮮における日本の公共・私有財産の没収について書かれた米軍政庁法令33号「朝鮮内にある日本人財産権取得に関する件」の効力を確認するなど、対日賠償請求の準備をすすめていた[8]

韓国の主張に対し日本側は、韓国併合の結果として朝鮮を国際法上合法的に領有、統治しており、朝鮮と交戦状態にはなかったため、韓国に対して戦争賠償金を支払う立場にないと反論し、逆に韓国独立に伴って遺棄せざるを得なかった在韓日本資産(GHQ調査で52.5億ドル[11]大蔵省調査で軍事資産を除き計53億ドル[12])の返還を請求する権利があると主張した。

しかし、1951年7月25日付け大韓民国駐日代表部政務部作成の「説明書」には、「大韓民国が日本に要求する賠償は、上記のような戦闘行為を直接原因とした点は至極少ない」とあり、また「韓国併合条約が無効であるとして、そこから発生した当時までの被害を一括して賠償というのも難しい」とされていた[13]
アメリカ合衆国の仲介

日韓交渉の背後には1951年7月頃からアメリカ政府の主導があったことが知られており、当時の李承晩大統領が韓国を「戦勝国」としてサンフランシスコ講和条約に参加することを求めたものの、第二次世界大戦当時には既に朝鮮半島が日本の統治下にあり、日本と交戦する関係になかったために「戦勝国」として扱う根拠がないことからアメリカやイギリスをはじめとした連合国側から拒絶され、「当事国」になることができなかった[10]

1951年9月の日本国との平和条約調印後、サンフランシスコ講和会議に参加することが許可されなかった李大統領は、日本政府との直接対話を希望し、アメリカの斡旋で日韓は国交正常化交渉に向けて、1951年10月20日に予備会談を開始した[9][10][14]。会談は東京の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)でシーボルド外交局長の立会いのもとに行われた[10][15]
日韓会談

1951年昭和26年)10月20日の交渉から1965年(昭和40年)の日韓基本条約締結までの会談を日韓会談、日韓国交正常化交渉という[9]。交渉では、日韓併合により消滅していた国家間の外交交渉の回復方式[16]、「李承晩ライン」以降韓国が占拠を続けていた竹島(独島)を巡る漁業権の問題、戦後補償(賠償)の問題、日本在留の韓国人の在留資格問題や北朝鮮への帰国支援事業の問題、歴史認識問題、 文化財返還問題など多くの問題を含んでおり、独立運動家として日本を敵視し続けていた李大統領の対日姿勢もあり予備交渉の段階から紛糾した[17]。しかし、最終的にはアメリカの希望もあり、冷戦下での安全保障のため合意にいたった[8]。韓国は当時「戦場国家」であり、日本は「基地国家」であった[8]
会談直前
予備会談

1952年(昭和27年)1月9日、日韓会談直前の予備会談で日本側から「日韓の雰囲気をよくするため」の文化財返還が提示された[18][19]
李承晩ライン「李承晩ライン」を参照

李承晩は対話の前提として、まず日本の謝罪「過去の過ちに対する悔恨」を日本側が誠実に表明することが必要であり、そうすることで韓国の主張する請求権問題の解決にうつることができるとした[8]。しかし、日本側は逆に日本も韓国に対して請求権を要求できると述べ、反発した韓国の李承晩政権は報復として日韓会談直前の1952年昭和27年)1月18日日本海に軍事境界線の李承晩ラインを宣言した[8]
第1次会談

第1次会談は1952年2月15日-4月25日に行われた[9]。請求権問題、日韓併合条約(旧条約無効問題)[9]、文化財返還などが議題となった。4月26日、事実上打きりとなった。

1952年2月20日の第1回請求権委員会で韓国の林松本代表は「日本からの解放国家である韓国と、日本との戦争で勝利を勝ち得た連合国は、類似した方法で、日本政府や日本国民の財産を取得できる」と述べ、日韓会談は日本側がこの主張を認めるか否かにかかっていると日本に警告し、韓国は連合国と同等の権利を持ち、朝鮮半島に残された日本財産没収の正当性を主張した[9]。韓国は、日本国との平和条約第14条の「日本国が、戦争中に生じさせた損害及び苦痛に対して、連合国に賠償を支払うべきこと」、また各連合国が日本の財産を差し押え、処分する権利を有することなどを請求権の根拠とし、自らを連合国の一員と位置づけることで日本から利益を得ようとしていた[9]

1952年2月21日の第1回財産請求権委員会で韓国側が韓日財産及び請求権協定要綱で「韓国より運び来りたる古書籍、美術品、骨董品、その他国宝、地図原版及び地金と地銀を返還すること」と提示された。これについて韓国側は2月23日「不自然な方法、奪取のごとき、韓国民の意思に反して搬出された」と規定した[18][19]

1952年3月5日の第4回基本関係委員会で韓国「大韓民国と日本国間の基本条約(案)」を提出したが、その第3条は「大韓民国と日本国は1910年8月22日以前に旧大韓帝国と日本国の間で締結されたすべての条約が無効であることを確認する」となっていた[9]


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