日韓トンネル
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構想ルート(黄緑が至釜山、緑が至巨済島)

日韓トンネル(にっかんトンネル)は、日本九州韓国朝鮮半島)を結ぶトンネル、またそのトンネルの構想。
概要

日本列島と朝鮮半島南部をトンネルで結ぶ構想は、第二次世界大戦前から戦時中にかけて大日本帝国が立案したことがあった。戦後は世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の関連団体の「日韓トンネル研究会」や「国際ハイウェイ財団」、日韓海底トンネル推進議員連盟が同トンネル構想を推進している。そのほか日本の建設会社の大林組が「ユーラシア・ドライブウェイ構想」の一環として1980年代当時に実現可能であった技術で構想していた。具体的な実現性については、建設にかかる費用とそこから生み出される利便について様々な意見があり、また日韓間の費用負担比をどうするかの議論があった。

2011年1月、韓国国土海洋部は「韓日海底トンネルは経済性がない」との調査結果とともに、推進中断を明らかにしたが[1]、その後も韓国側の政治家により建設に向けたアピールが行われることがある[2]

霊感商法被害救済担当弁護士連絡会事務局長の渡辺博によると、世界平和統一家庭連合による「日韓トンネル」プロジェクトは、「『日韓トンネルを造るため』という名目で多大な献金を集めるための『信者に向けたアドバルーン』」とのことで、定期的にプロジェクトを再燃させることで1981年以降に何億円単位の被害者を何人も生み出している一方で、プロジェクト実現の見込みはないとの考えを示した[3]
戦前の大東亜縦貫鉄道構想

九州と朝鮮半島を結ぶトンネルを掘る構想の原点は、1930年代に立てられた「大東亜縦貫鉄道構想」であった。これは当時日本領であった朝鮮半島の南端の釜山府(現・釜山)を起点とし、京城府(現・ソウル)を経て安東(現・丹東)から当時の満洲国領内へ入り、奉天(現・瀋陽)を経由して中華民国領内に入り、北京南京桂林を経て、ハノイ、サイゴン(現・ホーチミン)、プノンペンバンコクマレー半島を通りシンガポールに至る約10,000 kmの路線を建設する構想であった。

さらに1940年代東京 - 下関間を結ぶ弾丸列車計画(新幹線計画の前身)が立てられた後、1942年には「東亜交通学会」が設立され、日本本土(内地)から壱岐対馬を経て釜山へ至る海底トンネルを建設し、上記の大東亜縦貫鉄道と結んで東京 - 昭南(シンガポール)間を弾丸列車で結ぶ構想が立てられた。

日本本土側の起点は下関、博多呼子(現・唐津市)などが考えられていた。なお、1942年4月に満鉄東京支社調査室が作成した報告書「大東亜縦貫鉄道ニ就テ」では、日本側の起点を下関としている。

実現に向けて対馬や壱岐でボーリング調査などが実施されたが、これらの計画は第二次世界大戦終戦によりすべて頓挫した[4]
統一教会主導の戦後の構想

1980年代ごろから、韓国側で日韓トンネルを開削しようという声が一部の団体から上がった。

1981年11月、韓国のソウルで、統一教会の教祖・文鮮明が、自ら主催する第10回「科学の統一に関する国際会議」において、人類一家族実現の基盤にするために全世界を高速道路で結び、経済や文化交流を促進するとした「国際ハイウェイプロジェクト」なるものを提唱した。そして、その「国際ハイウェイ」の最初の起点となるものとして、「日韓トンネル」の建設を提案した[5]。同会議に参加した西堀栄三郎は文鮮明の話に感銘を受け、帰国するとすぐに「日本でも日韓トンネルのプロジェクトを始めるべきだ」と主張[6]。1982年2月9日、世界平和教授アカデミーは日韓トンネル計画に関する委員会を組織し、研究を開始した[7]

1982年4月、日韓トンネルの推進団体として「国際ハイウェイ建設事業団」が設立された。会長には久保木修己、理事長には梶栗玄太郎が就任した[8]

1983年5月24日、「日韓トンネル研究会」が東京で設立された。1993年発行の書籍には麻生太郎古賀誠久間章生など多数の九州の自民党有力議員が顧問として参加したとされた。これら保守政治家と反共という面でつながりのある統一教会ではこのプロジェクトのため信者に献金が奨励され、借金までして多額の献金をする者が多く出ていると、ジャーナリストの有田芳生は述べている[9]

1986年10月1日、佐賀県東松浦郡鎮西町(現・唐津市)名護屋で「日韓トンネル名護屋調査斜坑」の起工式が行われた。


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