日露関係史
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日露関係


日本
ロシア

日露関係史(にちろかんけいし、ロシア語: История российско-японских отношений)では、日本ロシアの二国間関係の歴史を述べる。かつてこれらの地域にあった国家や王朝を含める。

両国は、ロシア人極東進出と日本人の北方開拓の結果、隣国として基本的には敵対しながらも密接な関係を結びつつ歩んできた。目次

1 正式な条約を結ぶ前の歴史

1.1 ロシアの東方進出

1.2 フリースの金銀島探検隊

1.3 デジニョフ探検隊

1.4 アトラソフ探検隊

1.5 コジレフスキー探検隊

1.6 ベーリング探検隊

1.7 アンチーピン外交

1.8 ラクスマン外交

1.9 レザノフ外交・ゴローニン事件

1.10 ロシアにおける日本語教育の衰退及び日本におけるロシア研究の始まり


2 日露修好通商条約の締結

3 国境確定交渉

4 関係悪化と日露戦争

5 日露戦争後の関係改善

6 日本とソビエト連邦の関係

6.1 ソビエト連邦建国と日本

6.2 戦時下の日ソ関係

6.3 第二次大戦後の日ソ関係


7 ソビエト崩壊後の日露関係

7.1 日本国内の旧ソ連資産に関する問題


8 脚注

9 関連文献

10 両国間の紛争事案

11 関連項目

12 外部リンク

正式な条約を結ぶ前の歴史「アイヌの歴史」および「松前藩」も参照
ロシアの東方進出 シベリアの大河をつないだ東西連絡路。シベリアの河川交通を参照詳細は「ロシアのシベリア征服」、「シベリア」、および「毛皮貿易」を参照

モスクワ・ロシアイヴァン4世は、常備軍ストレリツィを設立すると、1552年のカザン包囲戦(英語版)でヴォルガ川中流域のカザン・ハン国を併合した。1555年モスクワ会社が設立されて北極海航路の探検が活発化し、エニセイ川までの航路が開拓された。摂政ボリス・ゴドゥノフは、イェルマークを支援して1598年シビル・ハン国を滅ぼし、西シベリア西シベリア平原へ版図を拡げた。

17世紀には東シベリアへの進出を図るロシア・ツァーリ国コサックによって、レナ川コリマ川までの航路が開拓された。1632年にはヤクーツクに砦が建設された。1639年イヴァン・モスクヴィチンがオホーツク海に達し、1643年にセミョーン・シェルコヴニコフ(Семёна Шелковникова、Semyon Shelkovnikov)がオホーツクに町を建設した。1640年代からヴァシーリー・ポヤルコフエロフェイ・ハバロフなどの探検隊が、ヤクーツクを拠点として、ゼヤ川アルグン川から農耕が可能なアムール川流域への南下を開始し、清露国境紛争が起きた。


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