日野康子
[Wikipedia|▼Menu]

日野 康子(ひの やすこ、応安2年(1369年) - 応永26年11月11日1419年11月28日))は、室町幕府第3代将軍足利義満の室。女院北山院。父は日野資康。住居にちなんで南御所とも称された。妹の日野栄子は4代将軍となった足利義持の正室で第5代将軍・義量の生母。弟に裏松重光らがいる。
生涯

1394年(応永元年)ころ(1405年との説有り。日野業子を参照。)に日野業子(康子の叔母)に先立たれた足利義満の後妻となり、北山第南御所に住したことから南御所と称された。1406年(応永13年)後円融天皇の側室(事実上の正妻)で後小松天皇の生母である通陽門院三条厳子の死後、義満は、後小松は即位後に父の後円融を亡くしており、さらに母の通陽門院を亡くせば、天皇1代のうちに諒闇を2度経験することになり、過去の例(四条天皇後醍醐天皇)が不吉であることから、准母を立てて諒闇を回避すべきだと主張した。関白一条経嗣や重光ら側近たちが義満の意向を受けて奔走し、康子はまず後小松の准母とされ、翌1407年(応永14年)に准三宮となり、さらに北山院の院号を宣下されて女院となった。1408年に義満が没した後、跡を継いだ義持は実妹の夫であったが康子とは疎遠であったらしく(『兼宣公記』応永24年正月10日条によれば、康子の兄弟であった僧侶の処遇を巡って康子と義持が衝突した後に不仲になったという)、義持による義満の朝廷政策の否定の影響もあって、康子の葬儀は女院としての格式では挙行されなかった。康子の死後わずか1ヶ月で御所としていた南御所は解体され、所領も後小松天皇に返還された。
関連項目

足利将軍家御台所

女院










足利将軍家御台所


尊氏:赤橋登子

義詮:渋川幸子

義満:日野業子 → 日野康子

義持:日野栄子

義量:なし

義教:日野宗子正親町三条尹子

義勝:なし

義政:日野富子

義尚:祥雲院

義稙:清雲院

義澄:日野阿子武衛娘

義晴:慶寿院

義輝:大陽院

義栄:なし

義昭:なし

カテゴリ










女院
平安時代

東三条院 / 上東門院 / 陽明門院 / 二条院 / 郁芳門院 / 待賢門院 / 高陽院 / 美福門院 / 皇嘉門院 / 上西門院 / 八条院 / 高松院 / 九条院 / 建春門院 / 建礼門院
鎌倉時代

殷富門院 / 七条院 / 宣陽門院 / 宜秋門院 / 承明門院 / 坊門院 / 修明門院 / 春華門院 / 陰明門院 / 嘉陽門院 / 東一条院 / 北白河院 / 安嘉門院 / 安喜門院 / 鷹司院 / 藻璧門院 / 明義門院 / 式乾門院 / 宣仁門院 / 正親町院 / 室町院 / 大宮院 / 仙華門院 / 永安門院 / 神仙門院 / 東二条院 / 和徳門院 / 月華門院 / 今出川院 / 京極院 / 新陽明門院 / 延政門院 / 玄輝門院 / 五条院 / 遊義門院 / 永陽門院 / 昭慶門院 / 永福門院 / 昭訓門院 / 永嘉門院 / 陽徳門院 / 章義門院 / 西華門院 / 広義門院 / 章善門院 / 朔平門院 / 長楽門院 / 延明門院 / 談天門院 / 達智門院 / 万秋門院 / 寿成門院 / 顕親門院 / 崇明門院 / 礼成門院
南北朝時代

後京極院 / 宣政門院 / 章徳門院 / 新室町院 / 徽安門院 / 宣光門院 / 新待賢門院 / 陽禄門院 / 嘉喜門院 / 新宣陽門院 / 崇賢門院
室町・安土桃山時代

通陽門院 / 北山院 / 光範門院 / 敷政門院 / 嘉楽門院 / 豊楽門院 / 新上東門院
江戸時代

中和門院 / 東福門院 / 壬生院 / 新広義門院 / 逢春門院 / 新上西門院 / 承秋門院 / 新崇賢門院 / 敬法門院 / 新中和門院 / 礼成門院 / 青綺門院 / 開明門院 / 恭礼門院 / 盛化門院 / 新皇嘉門院 / 新清和院 / 東京極院 / 新朔平門院 / 新待賢門院


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:19 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef