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日蓮
承久4年2月16日- 弘安5年10月13日
波木井の御影(身延山久遠寺蔵)
諡号日蓮大菩薩(後光厳天皇より)
立正大師(大正天皇より)
生地安房国長狭郡東条郷片海
没地武蔵国荏原郡
宗旨日蓮宗
寺院久遠寺 池上本門寺 誕生寺 清澄寺 法華経寺 妙顕寺 本圀寺 重須本門寺 大石寺ほか
師道善房
弟子日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持
著作立正安国論 開目抄 如来滅後五五百歳始観心本尊抄ほか多数
廟久遠寺西谷祖廟・東谷御真骨堂、大石寺 奉安堂、池上本門寺御廟所、池上大坊本行寺御灰骨堂、関西身延真如寺御真骨堂、東山二条妙傳寺御真骨堂、鎌倉東身延本覚寺日蓮御分骨堂、福岡・鎮西身延山本佛寺御真骨堂
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日蓮上人像、長崎市本蓮寺日蓮上人像、京都市左京区妙傳寺
日蓮(にちれん、承久4年(1222年)2月16日[1][注釈 1] - 弘安5年(1282年)10月13日[注釈 2])は、鎌倉時代の仏教の僧。鎌倉仏教のひとつである日蓮宗[注釈 3](法華宗)の宗祖。
文応元年(1260年)7月16日に「立正安国論」を鎌倉幕府に提出して国主諫暁を行う。立正安国論で自界叛逆難(内乱)と他国侵逼難(他国からの侵略)により日本は滅びると予言した。(但し、日蓮の時代はモンゴル帝国が各方面に侵攻し、モンゴル・南宋戦争、モンゴルの高麗侵攻など日本の隣国を繰り返し侵略し、前年の1259年には高麗が降伏していた時期であり、日蓮も蘭渓道隆等の渡来僧と交流もあったこと、民間でも貿易船等の交流もあったこと等から、予言であったのか、見聞に基づいた予測であったのかは不明である。国内の内乱も多く発生していた時代である。[2] [3] )
他宗を激しく批判・口撃し「建長寺も極楽寺も寿福寺も鎌倉の寺は焼き祓い、建長寺の蘭渓道隆も、極楽寺の良観房忍性も、首を刎ねて由比ヶ浜にさらせ」等の過激な発言を行い、良観(数々の慈善事業を行い「持戒第一の聖人」「生き仏」として尊崇され、幕府からの信頼も厚かった人物)により幕府に訴えられ、御成敗式目第12条「悪口(あっこう)の咎」[注釈 4]の最高刑となる佐渡流罪となった。1271年に佐渡へ流罪となった後、1274年に佐渡流罪を赦免され、一度、鎌倉に戻った後に山梨県の身延山に移った。
1281年の元寇に日本側が勝利したため、日本が滅びるという日蓮の予言は外れた。1282年10月13日に胃腸系の病により入滅。滅後の1385年に、日蓮宗の僧である大覚が雨乞い祈祷によって雨を降らした功績により、後光厳天皇から日蓮大菩薩の位を授けられた。1922年には日蓮主義者の本多日生らの嘆願により、大正天皇から立正大師の諡号を追贈された。
日蓮上人、日蓮聖人、日蓮大聖人等と敬称されるが、本項では敬称なしで表記する。 日蓮は、承久4年(1222年)2月16日、安房国長狭郡東条郷片海(現在の千葉県鴨川市)の漁村で誕生した[4]。片海の場所については諸説あるが、内浦湾東岸の地とされている[5]。 両親について、父は貫名重忠、母は梅菊とする伝承がある。日蓮は自身の出自について「日蓮は、安房国・東条・片海の石中(いそなか)の賤民が子なり」[6]、「海辺の旋陀羅が子なり」[7]、「東条郷・片海の海人が子なり」[8]と述べているので、漁業を生業とする家庭の出身と考えられる。ただし、両親は荘園を所有する領家の夫人から保護を受けており、日蓮自身、東条郷にある清澄寺で初等教育を受けているので、両親は最下層の漁民ではなく、漁民をまとめる荘官級の立場にあったと見られる[9]。 日蓮は12歳の時、初等教育を受けるため、安房国の当時は天台宗寺院であった清澄寺に登った[注釈 5]。天台宗は智以来、妙法蓮華経を最も優れた経典とする五時八教の教相判釈を受け継いでいた。師匠となったのは道善房であり、先輩である浄顕房・義浄房から学問の手ほどきを受けた[注釈 6]。幼名は善日麿[10]、あるいは薬王麿[11]と伝えられる。 清澄寺に登る前から学問を志していた日蓮は、清澄寺の本尊である虚空蔵菩薩に「日本第一の智者となし給え」という「願」を立てた[注釈 7]。少年時代の日蓮は、自身の誕生の前年に起きた承久の乱で真言密教の祈?を用いた朝廷方が鎌倉幕府方に敗れたのはなぜか、との問題意識をもっていた[12]。また、仏教の内部になぜ多くの宗派が分立し、争っているのか、との疑問もあった[13]。清澄寺にはこれらの疑問に答えを示せる学匠がいなかったので、日蓮は既存の宗派の教義に盲従せず[注釈 8]、自身で経典に取り組み、経典を基準にして主体的な思索を続けた。 伝承によれば、日蓮は16歳の時、道善房を師匠として得度・出家し、是聖房蓮長と名乗った(日蓮が17歳の時に書写した「授決円多羅義集唐決上」に是聖房の直筆署名がある。 得度した後、虚空蔵菩薩に真剣に祈り、主体的な思索を重ねた結果、日蓮はある日、各宗派や一切経の勝劣を知るという重要な宗教体験を得た[注釈 9]。 次に日蓮は、この宗教体験を経典に照らして確認し、各宗派の教義を検証するため、比叡山延暦寺・園城寺・高野山などに遊学することになった[注釈 10]。
生涯
誕生
修学
宗教体験と遊学
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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