日蒙関係
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日本とモンゴルの関係


日本
モンゴル

日本とモンゴルの関係(モンゴル語: Монгол, Японы харилцаа、英語: Japanese-Mongolian relationship)では、日本モンゴル国(以下では歴史的推移を述べるためモンゴルと表記する)の二国間関係について述べる。日本とモンゴルは13世紀に起きた蒙古襲来により交流が始まったが、両国は20世紀後半まで正式な国交を結ぶことはなかった。日蒙関係とも。
目次

1 歴史

1.1 モンゴル帝国の侵攻

1.2 20世紀前半

1.3 20世紀後半


2 貿易

3 交流

4 外交使節

4.1 駐モンゴル日本大使

4.2 駐日モンゴル大使


5 脚注

6 参考文献

7 関連項目

8 外部リンク

歴史
モンゴル帝国の侵攻詳細は「元寇」、「文永の役」、および「弘安の役」を参照

モンゴル帝国王朝)は高麗(現在の朝鮮半島)制圧後、皇帝クビライ(元の世祖)の意向もあり日本列島への侵攻を計画した[1]

クビライは1268年に複数の使節団を日本に送り込み、日本の「王」に対してモンゴル帝国に臣従することを求めた。この使節団が無視もしくは追い返されたことで、クビライは1274年10月に船900艘、兵士20,000人からなる軍隊を送り込み、対馬海峡を通って対馬へと侵攻を開始した。

この最初の侵攻となった文永の役では、対馬と壱岐を制圧して博多湾へと上陸して博多の町を焼き討ちしたが、撤退途中には日本人が後に神風と呼んだ暴風雨の影響を受けて、船団が崩壊するなど日本侵攻は散々な結果に終わった[1]

その後もクビライは日本侵攻をあきらめず、2回目の侵攻が行われた。2回目の侵攻では、既に襲来に備えて元寇防塁を築くなど周到な準備をしていた日本人は侵攻軍に大きな打撃を与えた。結果として、クビライは1279年に征服を完了した旧南宋の船団からなる新たな船団を組織、高麗より提供された900艘を越える軍船を従え、兵力約15万、軍船約4400艘からなる軍隊を日本へと送り込むこととなった。

高麗の船団は、旧南宋の艦隊が到着する以前の1281年5月に日本に到着し、南宋の船団を待つことなく博多で侵攻を開始したが、全くの失敗に終わった。その後弘安の役が開始された。旧南宋の船団は高麗軍の侵攻が失敗に終わった後に到着し、同じく博多に侵攻したものの日本軍を征服することはできなかった。全く成果を得られない中で8月15日に、文永の役と同様『神風』と呼ばれる台風が来襲、旧南宋の船団は散り散りになり、日本侵攻は失敗に終わった[2]

元寇後も日元貿易が継続していたが、元がによって中国本土から追われると、両者の関係は途絶えることになる。
20世紀前半

日本が日清戦争に勝利し、20世紀初頭に世界の一新興勢力となったことがきっかけとなって数世紀に渡りモンゴルを支配下においてきたが崩壊し(辛亥革命)、1911年に外蒙古独立(英語版)(詳細はモンゴルの歴史を参照)が起きると、ボグド・ハーンによるモンゴルのボグド・ハーン政権は世界の様々な国に公式の国交樹立を求めて内務大臣を含む使節団を派遣した。日本もこの中に含まれており、1913年にダーラム・ツェレンチメド(英語版)を日本へと派遣、トグス・オチリン・ナムナンスレン(英語版)に大正天皇に対する国書を持たせたものの、いずれも失敗に終わった[3][2]。やがて、1921年のモンゴル革命によってボグド・ハーン政権はソビエト連邦の影響下に置かれ、1924年には社会主義国家として外モンゴルモンゴル人民共和国が建国された。一方、中華民国領土に留められた内モンゴル日中戦争中には日本の占領下に置かれ、蒙古聯盟自治政府蒙古聯合自治政府が設置された。また後に内モンゴル自治区東部となった東モンゴル地域(興安省)は日本支配下の満州国に組み入れられ、モンゴル族五族協和 (満州国)で挙げられる一民族となった。1939年ノモンハン事件1945年ソ連対日参戦では、ソ連赤軍と連携したモンゴル人民軍ザバイカル戦線)が日本軍(関東軍駐蒙軍)と元寇以来の戦火を交え、モンゴルは内モンゴル東部から西部までほぼ占領して戦勝国となる。


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