日興
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この項目では、鎌倉時代僧侶について説明しています。証券会社については「SMBC日興証券」をご覧ください。
『日興上人説法石』(大石寺境内)大石寺開創までの間この上で日興がしばしば説法した、と日蓮正宗では云われている[1]

日興(にっこう・にちこう、寛元4年3月8日1246年3月26日)- 元弘3年/正慶2年2月7日1333年2月21日))は、鎌倉時代僧侶

日蓮宗を開いた日蓮の高弟であり、日蓮が定めた本弟子六老僧の一人。白蓮阿闍梨(びゃくれんあじゃり)と称する。日蓮宗富士派、日興門流、興門派の祖[2]

日蓮滅後、身延山を下山して富士上野の地に大石寺を開き、後に本陣を北山へ移し北山本門寺を開く。興門流寺院、日蓮正宗日蓮本宗、日蓮実宗等では第二祖として定められ、開山上人として仰がれている [3]
生涯
誕生と幼年時代

日興は寛元4年(1246年)3月8日、甲斐国巨摩郡大井荘鰍沢(現在の山梨県南巨摩郡富士川町)で誕生した。俗姓は紀氏。父は武士の大井橘六、母は富士上方河合(現在の静岡県富士宮市)の由井家の娘であった(日亨『富士日興上人詳伝』6頁[4])。幼少期に父が亡くなり、母が武蔵国の綱島九郎太郎に再嫁したので、日興は母の父である河合入道蓮光に養われることとなった。

やがて初等教育を受けるため、現在の富士市中之郷にあったと推定される天台宗寺院である四十九院(現在は廃寺)に登った。さらに須津荘(現在の岳南鉄道須津駅周辺の地域)の良覚美作(みまさか)阿闍梨の下に漢学を、また同地の地頭である冷泉中将隆茂から歌道・書道を学んだ。四十九院に登ってから伯耆公と呼ばれた(日亨『富士日興上人詳伝』9頁、大石寺『日興上人日目上人正伝』[5] 15頁)。
日蓮に入門

四十九院で初等教育を修め、さらに須津荘で漢学や書道も学んだ日興は、その後、四十九院と密接な関係にあった天台宗寺院の実相寺(富士市岩本、現在は日蓮宗寺院)に登り、修学に励んだ。実相寺は当時、一切経を蔵する大寺院であった。伝承によれば、正嘉元年(1257年)8月、鎌倉の大地震に遭遇した日蓮は、災害の原因を仏法の眼によって究明すべく、「立正安国論」執筆の準備のため、正嘉2年(1258年)2月、実相寺の経蔵において一切経を閲読したが、その折に日興は日蓮に接して感銘を受け、日蓮の門下となることを願い出たとされる(日精「家中抄」『富士宗学要集』[6] 第5巻147頁)。日蓮の指示があったためか、日蓮の弟子となってからも日興は実相寺において仏教全般にわたる修学を持続している。日興は、その後も弘安期に至るまで四十九院の供僧(本尊に供奉する僧侶)の身分を持っていた。

日興が日蓮のもとに赴いたのは、弘長元年(1261年)、日蓮が伊豆の伊東に流罪された時と伝えられる(日精「家中抄」)。日興は伊東において日蓮に給仕しただけでなく、周辺への弘教にも努力し、熱海の真言僧を折伏して日蓮の門下とした(日亨『富士日興上人詳伝』14頁)。

弘長3年(1263年)2月、日興は流罪を赦免された日蓮に従って鎌倉に入った。鎌倉での日蓮の活動拠点は松葉ヶ谷の草庵であり、日興もそこで日興より前に日蓮門下となっていた日昭・ 日朗らとともに日蓮に仕えながら日蓮の教化を受けたと思われる。
鎌倉期の活動

日興は日蓮の教化を受ける一方、独自に弘教活動に従事したが、主な舞台となったのは縁故のある富士方面だった。養親だった祖父・河合入道蓮光をはじめ、入道の子息・河合四郎光家、入道の娘である持妙尼、その夫・高橋六郎兵衛などが日蓮門下となっている。

文永2年(1265年)、日蓮は前年に逝去した門下である南条兵衛七郎の墓参のため、駿河国上野郷を訪れたが、その際に富士方面に詳しい日興が随行したとされる(大石寺『日興上人日目上人正伝』38頁、ただし同書ではその根拠を提示していない)。

この時期、日興は甲斐国波木井郷(現在の山梨県身延町)の地頭・波木井実長を折伏し、日蓮門下とした。実長が日蓮に帰依したのは文永6年(1269年)頃と推定される(日亨『富士日興上人詳伝』810頁)。実長は鎌倉番役のために鎌倉に出府する道の沿道にある四十九院で日興と出会い、入信した(日亨『富士日興上人詳伝』787頁。同書には「初老と青年と、俗と僧との異あるも、ともに甲南の出身で、意気相投じてしだいに宗義にも進み、一族ともに念仏を捨てて法華に帰し、みな興尊の門下にはいり、播磨公越前公の僧分をも出すに至った」と述べられている)。実長の入信後、波木井一族から播磨公・越前公などの日蓮門下の僧侶が輩出した。

文永7年(1270年)には、後に日蓮の本弟子六人(六老僧)の一人となった日持(甲斐公)が日興によって日蓮門下となっている。日持は駿河国庵原郡松野(現在の静岡県富士市)の出身で、7歳の時に四十九院に登ったが、そこで日興と出会って日興の弟子となり、日興に従って日蓮に帰依した。

また弘教のかたわら日興は、文永5年(1268年)8月、「実相寺衆徒愁状」を執筆し、志を同じくする複数の僧侶とともに実相寺院主の腐敗を幕府に訴え出た(日興の真筆による同愁状の草案が北山本門寺に現存する。


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