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日系ペルー人Peruano Japones,Nipo-peruano
左から
アルベルト・フジモリ、ケイコ・フジモリ
総人口
計100,000人[1]
居住地域
ペルー(特にリマ、ラ・リベルタ県、ランバイエケ県)、日本
言語
スペイン語、ケチュア語族、日本語
宗教
カトリック、仏教、プロテスタント
関連する民族
日本人、日系ブラジル人、日系アルゼンチン人、日系パラグアイ人、日系ボリビア人、日系コロンビア人、日系ベネズエラ人、日系エクアドル人
日系ペルー人(にっけいペルーじん、スペイン語 peruanos japoneses, 英語 Japanese-Peruvians)は、日本人の子孫のペルー人である。ただし、ペルーの日系人といった場合、日本国籍を有する一世を含むこともある。また、日本等に居住する場合もある。
長らくペルーの日系人口は8万人といわれてきたが、この調査は数十年前に行なわれたものであり、しかも当時、ペルー国外に住む日系ペルー人は調査対象とはならなかったうえ、日本人との混血の人たちをあまりカウントしなかった。これらの事実と、その後の自然増を勘案すれば、現在の日系人口は数十万に達している可能性もある。
目次
1 歴史
2 言語
3 移住
4 著名な日系ペルー人
5 脚注
5.1 出典
6 参考文献
7 関連項目
8 外部リンク
歴史 海外興行株式会社による広告。「一家をあげて」とあるが、これはブラジル側が定住労働力確保を目的としていたため 日ペルー外交関係設立140周年. 駐日ペルー大使館 在ペルー日本国大使館
日本人のペルーにおける最古の居住記録は、1614年のリマ市人口調査の20人である。また、1608年(慶長12?13年)に書かれた公証遺言状には日本人「ミゲル・デ・シルバ (MIGUEL DE SILVA)」の名が見える。シルバは通称であり、当該の遺言状には「日本国籍」が明記されている。
ペルー独立の際に、1821年にホセ・デ・サン=マルティンは独立宣言の中で奴隷制の段階的廃止(新たに生まれる奴隷の子の自由)を宣言し、サン=マルティンから独立戦争の主導権を受け継いだシモン・ボリーバルもそれを承認する立場にあったが、ボリーバルがペルーを去った後は寡頭支配層と大農園主の抵抗のため、実際の奴隷制廃止は1854年にまで遅れた。1854年にラモン・カスティーリャが奴隷制を廃止すると、ペルーのコスタの大農園主は労働力不足に苦しむようになり、黒人奴隷の代替としてヨーロッパ人の移民の導入を始めたが、ラテンアメリカに向かうヨーロッパ人の多くは当時飛躍的な経済成長を遂げていたアルゼンチンやブラジル帝国に向かったため、ペルーに定着したヨーロッパ人はごく僅かとなった。そのため、ペルーの寡頭支配層はアジアからの移民を求め、1849年にコスタのプランテーションでの労働力のために大清帝国から中国人農業労働者の導入が議会で決議された。