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日系ドミニカ人Japones Dominicano
とある日系ドミニカ人の家族
総人口
約800人
居住地域
コンスタンサ(ドミニカ共和国)(英語版)
言語
日本語、スペイン語
宗教
キリスト教、大乗仏教、仏教
関連する民族
日本人、日系ブラジル人、日系アルゼンチン人、日系パラグアイ人、日系ボリビア人、日系コロンビア人、日系ベネズエラ人、日系ペルー人、日系エクアドル人、日系チリ人、日系ウルグアイ人、日系キューバ人、日系メキシコ人、日系アメリカ人、日系カナダ人
日系ドミニカ人(にっけいドミニカじん、スペイン語: Japones Dominicano)は、日本人に家系起源を持つドミニカ共和国の住民。 第二次世界大戦後に、外地からの引揚などによって発生した約600万人の失業者問題を解決するべく、発案された事が起因とされている。 当時は、アメリカ合衆国における日米紳士協約や排日移民法、オーストラリアにおける白豪主義、フィリピンなどアジア諸国における先の太平洋戦争に起因する反日感情などから、それらの国々では日本人移民を受け入れが難しい事情があったことから、大戦において中立の立場であった中南米諸国への移民が注目されていた。 ドミニカ共和国への移民は、1956年(昭和31年)にドミニカ共和国政府が、農業開発のために日本人移民を受け入れるという、二カ国間条約を日本国政府との間に締結したことにより、当時の日本海外協会連合会(現・国際協力機構)によって、同年から1959年(昭和34年)にわたって行われた。「18ヘクタール(東京ドーム4個分の面積)の土地の無償譲渡」や「入植予定地は中程度の肥沃度」など、他の中南米諸国を比べても破格の好条件を謳っていたことから、全国から応募者が殺到し、鹿児島県出身者を主とした249家族1,319人が厳しい審査を経て、ドミニカ共和国へ移住した。 しかし、実際には日本国政府によって約束されていた面積の約3割の土地しか与えられず、その土地ですら岩や石だらけの荒地で、たびたび塩害に見舞われるといった、農業には全く適さない状態であった。また、慢性的な水不足に悩まされていたことや近代的な水利設備がなかったことに加え、ドミニカ共和国政府がその土地の所有権すら認めなかったことから、移住者の希望は完全に打ち砕かれることとなった。なかでも、隣国であるハイチとの国境近くの入植地は、24時間365日政府の役人による監視の下に置かれるなど、移住者の間で「地獄の一丁目」と名付けられるほどだった。 その原因は、日本とドミニカ共和国の両政府によって締結された条約において、日本からの移住者には耕作権しか与えないことが決められており、日本国政府が発表した募集要項にはそのことが一切記載されていなかったうえ、当時の駐ドミニカ共和国特命全権大使も、現地の水問題と塩害が多発している事実を把握していたことを隠蔽していたことにあるとされている。一方のドミニカ共和国政府も、日系移民をハイチからの侵入者を防止するための国境警備に使い、同時に荒地の開発にも利用することを意図しており、日本国政府もその事実を把握していたとの記録が残っている。 また、当時の独裁者だったラファエル・トルヒーヨ大統領の暗殺に伴い、国内情勢が混乱した際は、スペイン語を解さない者も少なくなく、現地人から白眼視されていたこともあって、略奪の対象とされ、僅かな収穫物や農具さえ奪い尽くされた。以降も移住者の生活は困窮の一途を辿り、この時期にドミニカ政府が把握しているだけでも、10名の日系移民の自殺者が出ている。これらのことから、後にドミニカ共和国への移民政策は、「戦後移民史上、最悪のケース」や「最も悲惨な(国策移民の)失敗例」、「事実上の棄民政策」とも称される程にまでなった。 日本政府も1961年(昭和36年)になって失敗を認め、ドミニカ移民の集団帰国を実施した。1963年(昭和38年)までに移住者のうち8割が日本への帰国、またはブラジルやアルゼンチン、ボリビアなど南米への移住という形でドミニカ共和国を去ったが、47家族276人はドミニカ共和国に残留し[注釈 1]、その後も日本政府に移住条件を守るよう交渉を続けていたものの、遅々として進まなかった。
概要