日系アメリカ人市民同盟
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日系アメリカ人市民同盟
全米日系市民協会Japanese American Citizens League
JACL本部(2021年5月21日撮影)
略称JACL
設立1929年
設立者荒井クラレンス威弥
谷田部トーマス保
坂本ジェームズ好徳
城戸三郎 他
種類501(c)(3)団体たる慈善団体
目的アジア系アメリカ人の権利擁護
同性婚支持
本部 アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコジャパンタウン
公用語英語
提携アジア・太平洋諸島系アメリカ人擁護会(英語版)
ウェブサイト ⇒jacl.org
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日系アメリカ人市民同盟[注釈 1][注釈 2](にっけいアメリカじんしみんどうめい、英語: Japanese American Citizens League、略称: JACL) は、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコに本部を置く、アジア系アメリカ人の権利擁護と、同性結婚への支持を目的とした公民権団体[10][11]。アメリカ国内では、最古かつ最大のアジア系人権団体である[10]
組織概要

戦前は、ロサンゼルス・サンフランシスコ・シアトルシカゴに支部、首都ワシントンD.C.にロビー機関が、各々置かれていた。

現在では、全国組織は100以上の支部で構成されている。国内の主要都市と大都市圏に置かれている支部は、

カリフォルニア中央地区

東部地区

山間地区

中西部地区

北カリフォルニア・西ネバダ・太平洋地区

太平洋北部地区

太平洋南西部地区

といった7地区にもうけられた評議会の、何れかに属す形となっている[11]
黎明期(1929年?1936年)
設立

クラレンス・アライ(荒井威弥)[注釈 3]やジェームズ・サカモト(坂本好徳)(英語版)[注釈 4]を中心として、1921年9月14日に発足した『シアトル革新市民連盟』のほか、トーマス・ヤタベ(谷田部保)[注釈 5]を代表として1923年5月5日にフレズノで発足した『アメリカ忠誠協会』、城戸三郎を代表として1928年10月19日にサンフランシスコで発足した『新アメリカ市民協会』など、既存の2世組織が統合する形で、1929年4月に発足した[16]。初代会長には、アライが就任する事となった[15]

発足当初は、2世を各分野における専門家や中小企業の経営者に育成すべく、自由な起業・自助努力・アメリカ合衆国への忠誠を促す事に、主眼を置いた[16]
ロビー活動の展開

その後は、サカモトをはじめとするシアトルの活動家達による積極的な支援もあり、1930年8月29日には初となる全国大会が、シアトルで開催された[17]。そこでは、「日本語学校、帰米の存在、二重国籍、1世の経済的支配及び中国情勢への日本に対する共感」が、移民社会に「日本的なもの」を蔓延させる事を警戒し、アメリカ市民としての忠誠心に基づく「2世の立場」を強調する事が、改めて確認された[18]。それに伴い、1924年に施行された『排日移民法』において「帰化不能外国人」と見なされた日系人とアジア系移民の市民権を、拡大する為のロビー活動を開始した[16][19]

まずは、1922年9月に連邦議会を通過した、帰化不能外国人である男性と結婚した女性は、アメリカ市民権を剥奪される事を定めた『ケーブル法(英語版)』を、撤廃させる事を目標とした。結果として、1931年に連邦議会は、帰化不能外国人と結婚しても、市民権を保持し続ける事が可能となる様に法改正し、1936年には撤廃される事となった[6][20]トクタロー・スローカム(1942年4月11日撮影)

次いで、別所南洋[注釈 6]に代表される、第一次世界大戦に従軍した838名の1世を含めた、アジア系移民の退役軍人に対して、市民権を付与させる為のキャンペーンを開始した。この取り組みも、別所と同じ1世の退役軍人であるトクタロー・スローカム(西村徳太郎)[注釈 7]によるロビー活動が功を奏し、1935年6月24日フランクリン・ルーズベルト大統領は、アジア系退役軍人へ市民権を与える『ナイ・リー法』に署名する事となった[20][23][24]
「帰米2世」への支援

2世において、重要なファクターを占める一つの集団として、アメリカで生まれながら、日本で教育を受けた後に再渡米した「帰米2世」が挙げられる。

1930年代から、全米各地の日本人会は「1世の真摯な後継者は、日本で教育された2世である」という見地から、日本に滞在する2世に対して、旅費を支援したうえで、アメリカでの就職を斡旋する「帰米奨励運動」を展開した。結果として、1万人以上の2世が「帰米」したと伝えられている。

しかし、法的な地位は他の2世と同じであっても、日本で教育を受けた影響から、多くの帰米がアメリカ社会の中で孤立感・疎外感に苛まれる事となってしまった。特に、幼少期から日本に滞在していた帰米の場合、英語に不自由な者が多かった。奨励運動による支援があったとはいえ、本来ならアメリカでの生活で醸成される筈の「日系」を軸としたエスニックな意識を共有できず、JACLの様な大部分の2世からは「荒っぽい」「変わり者」と評される独自のグループを形成する様になった。そうした帰米も、職業面では他の2世と同様に、日系コミュニティに依存せざるを得なかった。こうして、アメリカにおいて生活するうえで、あらゆる面で困難に直面する事となった帰米は、日系をめぐる人種エスニック編成において、ある種の「逸脱した存在」として扱われる事となった[注釈 8]

その事から、JACLのロサンゼルス支部は、これらの問題に対処するべく、1935年に「帰米部」を立ち上げた。帰米部は、1936年のJACL全国大会において、その立場を主張し、同大会の使用言語に日本語を認める事のほか、機関誌等における日本語欄の開設を決議させた。その後も、帰米を対象とした英会話教室の設置を実現させるなど、積極的に活動した[26]
開戦前後期(1937年?1942年)
日米関係の悪化と日系コミュニティの危機


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