日米交渉
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真珠湾攻撃に向け航空母艦を発進する日本海軍の艦載機(現地時間1941年12月7日、アメリカ国立アーカイブス)

日米交渉(にちべいこうしょう)とは、1941年(昭和16年)4月から同年11月の間になされた、太平洋戦争大東亜戦争)開戦直前の日本政府およびアメリカ合衆国政府間での国交調整交渉である。
概要「ABCD包囲網」も参照

民間ベースの動きを足がかりに、1941年春から日本陸軍中国大陸撤退を条件に、満州国の国家承認、日独伊三国同盟の是非、日米通商関係の正常化などを論点とした交渉が、野村吉三郎駐アメリカ大使コーデル・ハル国務長官との間で始められた。

しかし、ドイツ国訪問の帰途にソビエト連邦に立ち寄って日ソ中立条約を締結した松岡洋右外務大臣が「日本の対中政策の全面承認」を主張したために交渉は難航した。さらに、1941年(昭和16年)7月28日に日本軍はフランスヴィシー政権の承諾を得た上で南部仏印進駐を行ったが、8月1日にはアメリカ政府は石油禁輸措置等の日本に対する経済制裁を発動した[1][2]

その後、交渉は再開されて日本は近衛文麿内閣総理大臣フランクリン・ルーズベルト大統領との日米首脳会談開催(場所:アラスカ準州ジュノー)を要請したが、ハル国務長官の反対のために立ち消えとなった。

アメリカ政府は「全面協定案」(「ハル・ノート」の原型)と「暫定協定案」という2つの提案のいずれかを日本に提示する検討を進めており、後者は日米双方の譲歩を前提とする事態打開の方策を列記した内容であった。しかし、1941年(昭和16年)11月26日には「ハル・ノート」が、第3次近衛内閣の後継政権で東條英機首相率いる東條内閣の日本政府側に手渡されたことによって再び交渉は決裂し、同年日本時間12月8日(ハワイ現地時間:12月7日)には日本海軍によりハワイ真珠湾攻撃が行われて太平洋戦争大東亜戦争)が開戦した。
交渉経緯
交渉の開始

1940年(昭和15年)頃の日米関係は、援蒋ルートに対する日本側の北部仏印進駐日独伊三国同盟の締結、汪兆銘政権の承認と、それらに対抗した米国側の対日経済制裁(航空機用ガソリンや屑鉄の禁輸など)により悪化の一途をたどっていた[3]。重要資源のほとんどをアメリカに依存する日本にとって対米関係の修復は急務であり[4]、またアメリカにとっては対英援助の本格化に伴い、太平洋方面で日本との対立を避ける必要があった[5]。このような状況下で、両国の関係改善を模索するため日米交渉が始まることとなった。
民間外交から日米交渉の開始へ
二人の聖職者の来日と井川忠雄の活躍「若杉要#『米国共産党調書』発行」も参照

日米交渉は民間外交を起点として、その後に正規の外交ルートに乗せられたという経緯を持つ。その発端は、1940年11月25日、アメリカからメリノール宣教会ジェームズ・E・ウォルシュ司教とジェームズ・ドラウト神父が来日したことであった[6]。両師は元ブラジル大使沢田節蔵と、近衛文麿首相に近い産業組合中央金庫(現・農林中央金庫)理事井川忠雄に宛てた紹介状をそれぞれ持参しており、彼らの紹介で各方面の要人と面談した(その中には松岡洋右外相や武藤章軍務局長ら日本の高官も含まれていた)[6][7][注釈 1]。両師の目的は日米関係改善にあり、その背後にはフランクリン・ルーズベルト大統領の側近であるフランク・C・ウォーカー(英語版)郵政長官がいた[6][注釈 2]

翌1941年(昭和16年)1月に帰国したウォルシュとドラウトは、23日、ハル国務長官、ウォーカー、ルーズベルトに経過を報告し、「日本提案」なる覚書を提出した[10]。その内容は三国同盟の破棄、中国における停戦、極東モンロー主義の承認、米国との経済関係の回復というものであったが、これは正式な日本提案ではなく、両師が日本側の意見をまとめたに過ぎないものであった[10]。このときのルーズベルトの態度は明らかではないが、ハルは懐疑的であり、反対にウォーカーは乗り気であった[11]。ウォーカーとウォルシュ、ドラウトの構想は日米協定を結ぶことにより日本政府内の穏健派を支持し、日本の政策を対独結合から対米協調へと転換させようとするものであったが、ハル(および国務省)は日本では穏健派が軍部を抑えることはありえないと判断しており、温度差があったのである[12]

ともかく、ルーズベルトとハルは、両師が私的に日本側と接触することを容認しつつ、政府としての行動は新任の野村吉三郎大使着任まで待つこととした[13][注釈 3](野村の着任は2月11日)。その背景には、アメリカのアドルフ・ヒトラーの脅威に対する世界戦略、すなわち大西洋第一主義(ドイツ打倒を優先)・対日戦回避があり、ルーズベルトもハルも日米会談の門戸を開けておくことに異存はなかった[15][13]

一方、帰米後のウォルシュ、ドラウトの日米国交調整工作は井川を介して、近衛首相、武藤軍務局長、松岡外相に伝えられていた[16]。この工作は近衛と武藤の関心を引き、米国側の意向を瀬踏みするため、2月に井川が渡米した[17][16]。そして、後続として武藤の部下である岩畔豪雄軍事課長が3月に渡米することも内定した[18][注釈 4]。武藤、岩畔の思惑は、アメリカを利用した支那事変の解決にあり、日本にもアメリカと「太平洋の平和」を取引する動機があったのである[17][20]

27日、井川はウォルシュ、ドラウトと再会し、両師からウォーカーを紹介された。ウォーカーは日米関係が微妙な状況では民間人有志の外交が有効であると説き[21]、ルーズベルトとハルへの連絡役を買って出て「三者で協議を進めて日米国交を正常化する方法を決めてほしい」と井川を激励した[22]。しかし、そもそも両師は井川の政治的立場を見誤っており(井川を近衛首相の非公式代表と捉えていたが、井川は近衛から米国側の意向を打診し、報告してほしいと依頼されたに過ぎなかった)[23]、ウォーカーも井川を正式な権限を与えられている日本の全権代表と誤解してルーズベルトに報告するなど、日米交渉には当初からコミュニケーション・ギャップがつきまとっていた[24][25][注釈 5]


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