日立鉱山の鉱害問題
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日立鉱山の鉱害問題(ひたちこうざんのこうがいもんだい)では、茨城県日立市にあった日立鉱山で発生した、鉱毒に汚染された排水と亜硫酸ガスを含んだ排煙による鉱害問題とともに、鉱害解消に向けて採られた様々な対策と鉱山経営者と鉱害被害者との交渉によって問題の解決へと導いた経緯について記述する。
明治以前の鉱毒水問題かつて日立鉱山の精練所があった大雄院付近を流れる宮田川。宮田川流域で鉱毒水問題が発生した。

日立鉱山の前身である赤沢銅山は、1625年寛永2年)頃から銅の採掘を開始したと考えられている[1]。そして17世紀前半の採掘開始当初から、赤沢鉱山は近隣にかなり深刻な鉱毒水被害を発生させていた[† 1]

赤沢銅山での寛永年間の採掘は、1640年(寛永17年)頃まで続けられた。享保年間以降に書かれたと推定される古文書と1907年明治40年)に編纂された「赤沢銅山沿革史」によれば、鉱毒水が水田に流れ込むことによる減収のため、1646年正保3年)以降、宮田川流域の約60石分に当たる水田の年貢が免除となった。1650年慶安3年)には被害水田のうち47石あまりは鉱毒に汚染された土の除去を行うなどの土壌改良を行ったため、3ヵ年の年貢免除の上、1653年承応2年)に年貢率の低い水田に格付けされた。そして17世紀には1640年(寛永17年)以降も永田茂衛門とその息子である永田勘衛門による赤沢銅山開発の試みが3回行われたが、やはり宮田川流域の水田に鉱毒被害を発生させたことなどが原因で開発は頓挫した[2]

1705年宝永2年)には、幕府の後援を受けて豪商の紀伊國屋文左衛門らが参画した赤沢銅山の銅採掘が行われた。この時も宮田村の水田に鉱毒水が流れ込み、2割以上の水田が著しい不作のために年貢が免除される事態に陥るなど、かなり大規模な鉱害が発生したこともあって開発は中止に追い込まれた[3]。度重なる鉱害により、その後水戸藩は赤沢銅山の開発申請が出されても、鉱害問題を理由に許可を出さないようになった[4]

水戸藩が赤沢銅山の開発を許可したのは、幕末1861年文久元年)、大塚源吾衛門の開発申請時である。この時も地元では鉱毒水問題の再発を懸念して鉱山開発の反対意見が出されたが、藩は以前と比べて採鉱、選鉱、精練などの技術が進歩していること、そして万一鉱毒水問題が発生した場合、経営者の大塚源吾衛門に補償させることを約束して反対意見を説得し、赤沢銅山の開発が行われることになった。鉱害問題を鉱山経営者の補償で解決するという判断がこの時点で成立していたのは注目され、江戸時代に鉱毒被害を受けた水田の年貢減免が実施されていたことと併せて、鉱毒問題は補償で解決を図るという慣習が成立していったことは、その後の鉱山の発展に伴って鉱害の被害拡大した際の事態解決に影響するようになった[5][6]
明治時代の赤沢銅山での鉱毒水問題1905年頃の赤沢銅山

天狗党の乱のために大塚源吾衛門の赤沢銅山開発は1864年元治元年)に頓挫する。その後明治に入って副田欣一が赤沢銅山開発に乗り出し、赤沢から峠を越えた入四間村でも銅山開発が行われたが、ともに経営が軌道に乗ることなく休山となった。それから赤沢銅山の経営権は譲渡が繰り返されたが、実際に鉱山経営が行われることはなかった。そのような中、1892年(明治25年)に赤沢銅山付近の鉱業権を得た平野良三は日立村村長らと鉱山稼動に関する契約を締結し、鉱山経営再開への意欲を見せた。契約の中で鉱害が発生した場合、鉱業主である平野が賠償を行うことを約束していることが注目される。しかし平野は実際の鉱山経営に乗り出すことはなく、1894年(明治27年)に高橋元長と城野琢磨に鉱業権を譲渡した[7]

高橋と城野は、副田以来久しぶりに赤沢銅山経営に乗り出し、日清戦争時の銅需要の高まりもあって鉱山経営は順調であった。そこで1896年(明治29年)10月には鉱区の拡大を出願して経営の規模拡大を図った。すると鉱山の規模拡大に伴って鉱害が激しくなることを懸念した地域住民の頑強な反対運動が発生した。同年11月、茨城県知事からの照会を受けた日立村長は、古くからの銅山開発に伴う鉱害で水田の鉱害被害が続いており、また昨今の鉱山からの排水により川に魚影が見られなくなってきていることを説明し、増区を出願している区域は田の用水の源であり、増区が認められれば更なる被害の発生は必至として反対の答申を行った。それに対して東京鉱山監督署の監督官の現地調査では、現地では田畑の開墾地は少なく、鉱毒水が含まれる宮田川から農業用水を取水している田畑も少なく他に用水を求めることも容易であり、更に鉱毒そのものも鉱山の排水ではなく硫化鉱の大きな露頭が原因であると断じ、増区に問題はないとの復命書が提出された。しかし東京鉱山監督署の監督官の復命書に対して、日立村側は現地に開墾地は多く、そして多くの田畑は宮田川から取水していること、鉱毒の被害は天保年間の検地でも認められていて、地租改正時にも引き続き認められていること、更には宮田川の支流では魚が多く生息しているのに、本流と合流してからは魚の姿が見えなくなるのは明らかに鉱毒水の影響であり、現に地域住民は鉱毒に汚染されている水を飲料水として利用している状態であると、鉱害の発生事実について逐一説明をし、茨城県知事に対して再度の調査を強く要請する答申を提出した[8][9]

このような地元の激しい反対運動に直面した高橋と城野は、1898年(明治31年)7月、坑内からの排水と選鉱物から出される排水を、新たに建設する鉱毒予防施設によって処理することと、飲料水についても鉱害による被害が認められる場合、井戸を新たに掘るという計画を東京鉱山監督署に上申した。再び照会を受けた日立村では、高橋と城野の提案に加えて、宮田川を飲料水に用いている住民のために各所に井戸を掘ることと、水田に被害が発生した場合、水田の所有者に対して賠償を行うことを条件に増区を認めるとの意見書を答申し、1899年(明治32年)4月、ようやく増区は認められることになった。しかし高橋と城野は、鉱害対策費など鉱山経営を継続するために必要とされる資金調達に失敗し、1900年(明治33年)、横浜の貿易商であるボイエス商会に鉱業権を譲渡することになる[10][11]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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