インフィニティ・Q45(INFINITI Q45)は、日産自動車の高級車部門である「インフィニティ」でかつて販売されていた大型高級セダンである。 インフィニティの旗艦車として開発され[1]、北米、日本、韓国、中東などで販売された。日本では1代限りとなったが、日本国外では日産・シーマと同型のモデルがQ45の2代目・3代目として販売された[1]。インフィニティ・ブランドの設立については、インフィニティ (日産自動車)も参照 インフィニティブランドの誕生のきっかけは、1985年(昭和60年)のプラザ合意による円高であり、それまで海外では低価格で高品質を売りとしていた日本車は苦戦を強いられていた。そこで日産では、コンセプトこそ従来の日本車の売りを踏襲するものの、さらに付加価値を高めた高級車の開発・生産を計画。その結果、誕生したのがQ45であった。 初代Q45の事実上の前身として、1985年(昭和60年)の東京モーターショーで日産が発表したコンセプトカー「CUE-X」が存在する。 搭載エンジンは、VG30型 V型6気筒ターボで、電子制御トルクスプリット4WD/4WS、電子制御エアサスなどを装備し、ボディサイズも 4860?1850?1305mm とQ45よりは一回り小さいサイズであるが、開発当初から「次世代高級高性能サルーン」をコンセプトとしており、CUE-Xの開発に関わったデザイナーの松井孝晏 日産・インフィニティQ45 1989年(平成元年)、日産は北米の高級車市場の一角を狙い、インフィニティディヴィジョン[4]のフラグシップカーとしてQ45を投入した。エクステリアデザインは社内によるもので、当時デザイン部に所属していた山中俊治が担当した。 日本での発売は同年11月で、「日産・インフィニティQ45」として販売された。日産のCIではなくインフィニティエンブレムがつくものの、リヤガーニッシュ下部中央にNISSANの文字が目立たなく配された(後期型は文字が若干目立つように変更された)。 キャッチフレーズに「ジャパン・オリジナル」を掲げ、旧来の高級車像とは違う、独自の価値観を追い求めた点で評価が高かった。従来の一般的な高級車のようにメッキ仕上げの大型フロントグリルを備えることなく、グリルレスの薄いマスクに七宝のエンブレムのみを取り付けた。また、高級車では当然の装備とされる木目パネルを一切使用せず、和の象徴ともいえる漆塗り(金粉蒔絵)のインストルメント・パネル(KOKONインスト)をオプションで設定するという、世界の高級車の常識に挑戦するかのような斬新なコンセプトで発表された。ソフト面で日本文化を体現する一方で、その走りは北米市場の日産に対する期待を反映し、若かりし頃240Zに夢中になった「Z Car世代」をターゲットとしたスポーティなものとされるなど、こちらも異色であった。足回りは、前後ともマルチリンク式サスペンションで、901運動 の集成とも言える油圧式アクティブサスペンションを持つ仕様が日米ともラインナップされていた[4]。輸出仕様のみであるが4輪操舵システムが設定された[4]。エンジン出力は日本車として初めて300馬力に達し、同時期に発表されたZ32型フェアレディZ、BNR32型スカイラインGT-Rとともに300馬力トリオとなる予定であった。しかしながら運輸省(当時)からの行政指導によって、280馬力に自主規制された。 18金製のゴールドキー(価格52万円)がディーラーオプションで設定され、現物が銀座の日産本社ギャラリーで展示されていた。 北米仕様においては日本仕様に比べてよりパーソナルカー的な性格が強く、ベースグレードの「Q45」のほかに、リアスポイラーやBBSのホイールなどが装備され、日本仕様にはないスーパーHICASの設定があったツーリングモデルの「Q45t」、アクティブサスペンションなどが装備された「Q45a」が設定された。また、北米仕様は日本仕様とは異なり出力の自主規制はなされず、フェアレディZとともに日本車としては初の300馬力車となった。 しかし、Q45の特徴でもあったグリルレスデザインは不評で、アフターマーケットで販売されていたホシノインパル製などのフェイクグリルを装着するユーザーもおり、エアロパーツのメーカーも自社のエアロに合わせた後付けのフロントグリルを開発していた。その後、1993年(平成5年)6月に行われたマイナーチェンジでは、七宝のエンブレムや漆インパネが廃止され、ローバー・800に似たフロントグリルと木目パネルが取り付けられた。なお、本車が発表された翌年に誕生したJG50型プレジデントは、最初から大きなフロントグリルが装着されている。 インフィニティ・Q45(2代目)
概要
CUE-X
初代 G50型 (1989年-1997年)
インフィニティ・Q45(初代)
G50型
前期型
後期型
概要
販売期間1989年11月 - 1997年8月[3]
設計統括岡昂
デザイン山中俊治
ボディ
乗車定員5人
ボディタイプ4ドアセダン
駆動方式FR
パワートレイン
エンジンVH45DE
変速機4AT
車両寸法
ホイールベース2,875(前期)/2,880mm(後期)
全長5,090mm
全幅1,825mm
全高1,430(前期)/1,425mm(後期)
系譜
後継FY33型日産・シーマに統合(日本)
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1989年11月 - 日本国内で発売。
1990年10月 - 一部改良。サイドインパクトバーの追加、トラクションコントロールのオプション設定、ハイマウントストップランプの標準装備化といった安全装備を充実させた。装備面では内装トリムの質感向上の他、後席のパワーシートなどが新たにオプション設定された。 またパワーシートスイッチの形状が見直され、 L字型3スイッチタイプに変更。
1993年6月 - マイナーチェンジ。フロントにグリルが取り付けられ、リヤガーニッシュの色が黒からグレーに変更される。インテリアの主な変更は、ウォールナット材の本木目ATフィニッシャーの採用、シート形状の変更、アナログ時計が白地が黒地に変更された。
1994年10月 - 一部改良。内装照明の簡素化、内装素材のコストカットなど。93年モデルは本木目パネルであったが木目調パネルに変更されている。4型液晶を使ったAVシステムを設定。全車にサンルーフレス仕様車が選択できるようになった。
1995年11月 - ボディカラーの一部見直し。
1996年 - 北米では一足先に2代目Q45(FY33型シーマ)にモデルチェンジ。
1997年7月[5] ー 生産終了。以降は在庫対応分のみの販売となる。
1997年8月 - FY33型シーマに統合される形で販売終了。同年末までの新車登録台数の累計は2万3,684台[3]。
2代目 FY33型 (1997年-2001年)日本仕様については、日産・シーマを参照
FY33型
前期型
後期型
概要
販売期間1997年 - 2001年
ボディ
乗車定員5人
ボディタイプ4ドアセダン
駆動方式FR
パワートレイン
エンジンVH41DE
変速機4AT
車両寸法