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日産コンツェルン
創業者鮎川義介
創立1920年
国籍 日本
中核企業日本産業
中心的人物鮎川義介
後身春光グループ、日産グループ、日立グループ、ENEOSグループ
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日本産業コンツェルン(にほんさんぎょうコンツェルン)・略称日産コンツェルン(にっさんコンツェルン)は、第二次世界大戦前の日本に存在した財閥である。コンツェルン化した「十五大財閥」の1つで、鮎川財閥とも呼ばれる。鮎川義介が創設した戸畑鋳物株式会社を祖とし、久原鉱業を改組した日本産業株式会社を持株会社とした。
日本産業の主な傘下には、日本鉱業(日立鉱山)グループ、日立製作所グループ、日産自動車グループなどがあった。戦前では後発の財閥ながら、製造業に関しては三菱、三井などの先行財閥を凌駕する規模の資本を築き上げたが、金融・商事部門は弱かった。終戦後に財閥解体の対象となり、そのまま資本の再結集は行われていないが、春光グループを形成している。[1] 井上馨の甥である鮎川義介が、第一次世界大戦後の不況により経営危機になった久原財閥を1920年に引き継いで誕生した。軍部の懇願により、鮎川は久原鉱業を中心とした事業再編を断行。1928年に久原鉱業を「日本産業株式会社」に改組。この会社は株式公開企業であり、公開にあたって得た資金を元に事業拡大を進める。 子会社も積極的な株式公開戦略を行い、その資金を元にさらなる事業拡大という戦略を進め巨大化。中核企業である日本鉱業(現在のENEOSホールディングス)・日立製作所のほか、鮎川が最初に設立していた国産工業(のちの日立金属)やそこから派生した日産自動車などの企業群が持株会社である日本産業の下にぶら下がる構造となった。 1938年、 政府の要請により日本産業を満洲に移転し、満洲重工業開発株式会社に改組するも、関東軍との対立のため、国内部門と満洲部門にグループを分割再編。国内産業は日本鉱業(のちのENEOSホールディングス)、日産グループ、日立グループなどの企業が並存した。 第二次世界大戦後、満洲重工業は財閥解体により解散。GHQの占領が終了して日本の独立主権が回復し、日本経済立て直しの気運が高まるとともに、当時の日立製作所会長・倉田主税によって旧日産コンツェルン系企業が再結集し、春光グループと呼ばれる企業グループを形成している。[2]
沿革