日活
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日活株式会社
NIKKATSU CORPORATION

種類株式会社
市場情報非上場(以下は過去のデータ)
東証1部 9606
1993年10月2日上場廃止
本社所在地 日本
113-0033 
東京都文京区本郷三丁目28番12号
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度42分21.75秒 東経139度45分42.84秒 / 北緯35.7060417度 東経139.7619000度 / 35.7060417; 139.7619000座標: 北緯35度42分21.75秒 東経139度45分42.84秒 / 北緯35.7060417度 東経139.7619000度 / 35.7060417; 139.7619000
設立1912年9月10日
業種情報・通信業
法人番号4010001000011
事業内容映像事業
メディア事業
次世代事業
代表者代表取締役社長兼執行役員 佐藤直樹
資本金35億3,475万円
売上高78億4000万円(2019年02月28日時点)[1]
営業利益2億0600万円(2019年02月28日時点)[1]
経常利益2億0700万円(2019年02月28日時点)[1]
純利益1億5600万円(2019年02月28日時点)[1]
純資産67億9500万円(2019年02月28日時点)[1]
総資産111億6900万円(2019年02月28日時点)[1]
従業員数195名
決算期2月末日
主要株主日本テレビ放送網株式会社 35.4%
スカパーJSAT株式会社 28.4%
主要子会社株式会社ジャンゴフィルム 100%
関係する人物後藤猛太郎
外部リンク ⇒www.nikkatsu.com
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日活株式会社(にっかつ、: NIKKATSU CORPORATION)は、日本映画製作・配給会社。日本テレビ放送網株式会社とスカパーJSAT株式会社の持分法適用関連会社。

社名は創立時の名称である「日本活動冩眞株式會社」(にほんかつどうしゃしん)の略称に由来。
概要

本社は東京都文京区本郷三丁目28番12号。調布市日活撮影所を有している。撮影所内ではかつて日活芸術学院(1975年 - 2013年)を運営していたが、城西国際大学に事業譲渡している。ミニシアターシネリーブル池袋、シネ・リーブル梅田、シネ・リーブル神戸(三宮)、シネ・リーブル博多駅(福岡県)を所有し、千葉県印西市シネマコンプレックスシネリーブル千葉ニュータウンを所有していたが、2009年4月から、東京テアトルとの業務提携により、運営を東京テアトルに委託している。また、スカパー!プレミアムサービスケーブルテレビ局向けにチャンネルNECOレインボーチャンネルを、スカパー!(東経110度CS放送)向けにチャンネルNECOを放送している。

かつては東宝東映松竹大映(現・KADOKAWA)と並び称される映画会社だった時代もあり、一時は映画館のほかホテル・ゴルフ場・ボウリング場をもつ総合レジャー企業を志向していた時期もあったが、設立当初から経営危機・和議申請・会社更生法申請・様々な企業に買収・転売されるなど苦難の歴史をたどり続けた。1970年代 - 1980年代後半には経営の苦しい中日活ロマンポルノの名称で映画製作業務を続け、助監督の採用を続けていた。当時採用した助監督は、その後監督に昇進し、今日の日本映画を支えている。詳細は「日活ロマンポルノ」を参照

会社自体は日本最古の歴史を誇るが、戦時中に新会社の大映に製作部門を譲渡し、日本の大手撮影所建設としては現時点で最後である1954年に撮影所を建設し、ゼロから製作を再開したこと、その際に五社協定包囲網に抵抗しながら新人発掘で乗り切ったこと、製作再開まもなくから十数年間、青春映画アクション映画を得意としたことなどから、老舗としてよりはニューパワーとして位置づけられ語られることが多い。これは、遥かに後発の大映が、実質的に旧日活の製作部門を継承しているために「伝統」の文字を冠させられることが多いのと対照を成している。
沿革
創業 - 戦前

1912年3月、国家当局の要請を受けた京都横田商会の横田栄之助の尽力により、資本金1000万円をもとに[2]横田商会吉沢商店福宝堂エム・パテー商会の国産活動写真商社4社が合併して「日本活動フィルム株式會社」として創立(初代社長は後藤猛太郎)。

この「日本活動フィルム株式會社」は、株式市場で「活フイ」と略称されたため、「これから発展しようという会社が“フイ”になってはいかん」と@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}社長の後藤猛太郎が[要出典]縁起を担ぎ、元号が大正へと変わった後の9月10日に、社名を「日本活動冩眞株式會社」と改称し、略称を「日活」とした[3]。以後、時代劇の名門映画会社として、京都の撮影所で尾上松之助を看板スターとした。

1913年、東京向島水神に、ガラスステージを備えた現代劇(新派)の撮影所を建設。

1914年10月、ロシア文学を原作とする『復活』が公開され大ヒット。女弁士が「カチューシャの唄」を歌い、大評判となった。現代劇映画だったが、カチューシャ役は歌舞伎女形役者である立花貞二郎が演じており、まだ映画女優は存在しなかった。

病弱だった立花が死去すると、向島撮影所では大阪の舞台から東猛夫を招いて女役に当たらせるが、やがて「写実を本位とする映画劇に女形は不適当である」との声が高まり、舞台女優中山歌子が「映画女優」として加入することとなる。

1922年12月30日、女形が出演する最後の作品『京屋襟店』が封切られた。これを契機にこの年暮に向島撮影所の女形を交えた新派役者10数人(13人とも)が、国活(国際活映)に移籍。日活はこれを機に向島から女形を一掃、新劇の舞台協会と提携して「ピカ一スタア」と呼ばれた岡田嘉子を時代劇女優に迎え、ほかに瀬川つる子ほか数人の女優に加え、溝口健二阿部豊ら新進監督が腕を振るい始める。

1926年、尾上松之助が死去。以後京都撮影所では、山本嘉一河部五郎大河内傳次郎らが人気を博すが、サイレントからトーキーに移行した頃になると、独立プロを追われた阪東妻三郎片岡千恵蔵嵐寛寿郎らが参入。この時期業績が下降し、経営権を巡る争奪戦が勃発。東宝・松竹両社が株式の相当数を抑え、かつ両社から一定数の重役を迎えるなど両属状態に陥った[4]

1942年、戦時統合により製作部門が切り離され、新興キネマ大都映画とともに大映(大日本映画製作株式会社)に移管、映画製作から一旦撤退。業績の良かった配給部門だけが残った[要出典]。
映画会社としての再生 - 映画黄金時代

1945年4月、大映から直営館29館を譲り受け90館になり[5][6]、11月、「日活株式会社」に社名変更[5][7]。製作部門を持たない日活は、終戦直後は大映の映画、その後はアメリカ映画の興行を専門にしていた[8][注 1]


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