日活向島撮影所
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日活向島撮影所
Nikkatsu Mukojima Studios
種類事業場
市場情報消滅
略称日活向島
向島新派
日活新派
本社所在地 日本
東京府南葛飾郡隅田村字堤外1412番地
(現在の東京都墨田区堤通2-19-1)
設立1913年10月
業種サービス業
事業内容映画製作
代表者山崎勝造(初代)
主要株主日本活動写真株式会社(日活
関係する人物小口忠
桝本清
細山喜代松
田中栄三
立花貞二郎
関根達発
山本嘉一
特記事項:1923年11月14日 閉鎖
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日活向島撮影所(にっかつむこうじまさつえいじょ、1913年10月 正式開業 - 1923年11月14日 閉鎖)は、かつて存在した日本の映画スタジオである。大正期日活の二大撮影所の一つとして、主に現代劇を製作し、製作物(映画作品)の配給はすべて日活本社が行った。新派劇を得意とし「日活新派」と呼ばれた。
データ

正式名称 : 日本活動写真株式会社向島撮影所

所在地 :
東京府南葛飾郡隅田村字堤外1412番地 (現在の東京都墨田区堤通2-19-1)

所長 : 歴代

山崎勝造(1913年10月 - 1916年2月)

久保秀彦(1916年2月 - 1922年5月)

池永浩久(1922年5月 - 1922年9月)

後藤信治(1922年9月 - 1923年4月)

根岸耕一(1923年4月 - 1923年11月)


略歴・概要
合併による新撮影所

1912年(大正元年)10月1日、合併により営業を開始した日本活動写真株式会社(日活)は、M・パテー商会福宝堂横田商会吉沢商店のそれぞれの撮影所のうち、前者2社の撮影所を閉鎖し、京都の横田商会の法華堂撮影所、東京の吉沢商店の目黒撮影所を稼働させた[1]。閉鎖された撮影所の従業員は一部日活に引き継がれたが、京都に配転されても旅費も出ず、目黒の周囲にたむろしていた[1]

合併から明けて、1913年(大正2年)、東京の隅田川ほとりの杉山茂丸の別荘地、約100坪(330.58平方メートル)買収し、旧吉沢商店代表・当時日活取締役の河浦謙一と、旧福宝堂の撮影技師・吉本敬三の設計により、同年2月に着工した[1]。旧福宝堂、旧M・パテー商会のスタッフは、建設中の敷地で撮影を開始した[1]。当時の旧両社のスタッフは、下記の通りである[1]

旧福宝堂 - 脚本・演出 : 篠山吟葉、田村宇一郎、撮影 : 杉山大吉、菅谷幸吉、枝正義郎、西川源一郎、吉本敬三、俳優 : 山崎長之輔 一派

旧M・パテー商会 - 撮影 : 藤野泰、男沢粛、坂田重則大洞元吾

工費は公称約2万5,000円で、目黒を超える本格的グラスステージが同年9月1日に落成、同年10月に稼働が開始した[1]。目黒の旧吉沢商店のグラスステージが閉鎖され、最終的には向島撮影所を現代劇、関西撮影所を時代劇に使用するという形で決定がおこなわれた。現在東映が踏襲する東西撮影所の棲み分けの原型が生まれた。

目黒から移ってきたスタッフは下記の通りである[1]

旧吉沢商店 - 脚本・演出 : 小口忠桝本清、鬼頭磊三、新海文次郎、背景(美術) : 斎藤五百枝、撮影 : 千葉吉蔵、村上満麿、小西亮、俳優 : 関根達発森三之助五味国太郎立花貞二郎横山運平

土地提供者の杉山茂丸の推薦で入社した山崎勝造が撮影所長に就任した[1]
カチューシャと革新映画

1914年(大正3年)に入るとますます日活は欠乏し、経費節減で新作の製作を抑えにかかった[2]。同撮影所では、吉沢商店時代に佐藤紅緑藤沢浅次郎の薫陶を受けて自由に育った演出部の小口、桝本、俳優部の関根、立花らは新しい表現を目指した[2]。同年3月に島村抱月芸術座が公演した、レフ・トルストイの小説『復活』の新劇への翻案が脚光を浴び、松井須磨子が劇中で歌った『カチューシャの唄』は一世を風靡した[2]。そこで桝本が脚本を書き、小口が演出し、関根がネフリュードフ、女形の立花がカチューシャを演じた『カチューシャ』が生まれた[2]。同作は同撮影所始まって以来の大ヒットとなり、翌1915年(大正4年)早々、続編が製作・封切られた[2]

1917年(大正6年)、演出部に田中栄三、俳優部に東猛夫山本嘉一藤野秀夫衣笠貞之助が入社した[3]。新劇出身の田中、山本は、脚本部の桝本と同志的結合を結び、1918年(大正7年)、再びトルストイを原作に『生ける屍』を生み出した。田中の監督デビュー第2作である[3]。当時、アヴァンタイトルに監督名のクレジットは入っていなかったが、イタリア映画を真似て、同作にはクレジットが入った[3]。同作は向島の「革新映画」の第1作とされる[3]。スター女形の立花貞二郎が、同作のリイザ役を最後に同年11月11日、満25歳で死去した[4]

1921年(大正10年)の正月興行から、同撮影所に「第三部」が設置され、中山歌子酒井米子ら「女優」をフィーチャーした映画を製作、公開した[5]。前年に松竹キネマ小山内薫新劇に裏打ちされた映画を製作し始め、日本映画に女優の歴史が始まったからである。第1作は、1920年(大正9年)12月31日公開の田中栄三監督作品『朝日さす前』である[5]。日活本社は第三部の興行のフラッグシップに東京・赤坂の洋画専門館葵館をブッキングしたが、中山らは新派出身の芝居をする女優であり、作品に革新の意思は存在したものの、新派の延長線上の作品はマーケットに合わず、早晩に敗退した[5]
新劇と女優の導入

1922年(大正11年)9月、後藤信治が所長に就任した[6]。同年、田中栄三が監督した映画『京屋襟店』は、女形が出演する映画の最後の輝きとなった[6]。同作の完成試写が行われた同年11月25日夜、前取締役の石井常吉の国際活映再建の為の引き抜きにより、藤野秀夫を初めとする13名の幹部俳優、1名の監督、2名の撮影技師が退社を表明した[6][7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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