日活ロマンポルノ
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日活ロマンポルノ(にっかつロマンポルノ)とは、1971年昭和46年)から1988年(昭和63年)にかけて日活(にっかつ)で制作・配給された日本の成人映画レーベルである(1978年(昭和53年)に社名変更し『にっかつ』へ名称を改める)。
概要

1950年代後半、様々な悪条件下で映画製作を再開した日活は多くのヒット映画を送り出し、日本映画の黄金時代を支えた。ところが、1960年代後半から次第に映画の観客数減少や経営者のワンマン体質などで経営難に陥り、映画製作が困難になった。そこで、ダイニチ映配時代の中心作風だった「エロ路線」を前面に押し出し、かつ採算面から低予算で利益が上がるジャンルの作品として、成人映画を主体に変え、「日活ロマンポルノ」が誕生した。当時の関係者の証言によれば、それまでの日活で製作した一般向映画よりも、収録期間や製作費などは半分以下であったという(実際、路線が発足したばかりの頃、社内ではロマンポルノは「小型映画」と仮称されていた[1])。
詳細

1971年昭和46年)、当時の日活は、ワンマン社長であった堀久作による放漫経営などの結果、業績下降に直面していた。同年6月、ワンマン社長であった久作が電撃退陣、同時に常務の壺田重三ら久作の側近も事実上追放。新しい社長に就任した久作の息子・堀雅彦は父による放漫経営の後始末に追われ、ほとんどの専属俳優はフリーとなり、他社やテレビ業界へと活躍の場を移した。

この年は、撮影所システムと言われる、日本映画制作各社の旧来の制作システムが急激に衰退を迎えていた時期であり、日活以外年末も押し迫った12月末に、この年の夏までダイニチ映配として日活と配給を組んでいた大映が12月に破産した結果、1953年(昭和28年)から足掛け18年にわたって続いた五社協定が最終的に崩壊。東宝に至っては自社での映画製作を大幅縮小、多くの専属俳優を解雇するという惨状であった。

同年夏[2]、対立を続けていた会社と労働組合が手を携え「映像委員会」を設置し、打開策を検討した[2]。そこで営業担当の役員から提案されたのがポルノ映画の製作・配給で「質の高いポルノが提供できれば独立プロピンク映画を席巻できる」と力説[2]。委員会のメンバーだった那波直司らは、ポルノでも何でもいいから映画を撮りたい、カメラを回したいという気持ちが強く、この提案に賛成した[2]。厳しい状況下で、日活に籍を置いていたキャリアの浅い若手の映画人たちの多くも、日活を退社したところで行き場もなく、ロマンポルノに活路を求め、足を踏み入れていくしか選択肢がない状況であった。こうして日活は大手映画会社の一角でありながら、とにかく会社を生き残らせるため、ポルノ主体の路線へと舵を切った。

企画の実務を担当したのは映像本部長室の部長・黒澤満とプロデューサーに転向した助監督たちで、黒澤は「今までと違うポルノを作れるという自信があった」と話した[2]

『ロマンポルノ』という言葉は、同年7月に公開された東映ポルノ温泉みみず芸者』(鈴木則文監督)で、日本で初めて使われた『ポルノ』という言葉を[3][4] 拝借して作ったものともいわれるが[5]、黒澤は新路線の名称は「どこからか寄せられたアイデアに"ポルノロマン"というのがあって、それをひっくり返して『ロマンを求めるポルノ』という意味をこめ、"ロマンポルノと名付けた」と話している[2]
ロマンポルノの歴史
人気女優

日活ロマンポルノは1971年昭和46年)11月にスタートし、『団地妻 昼下りの情事』(白川和子主演)[6] と、『色暦大奥秘話』(小川節子主演)が第1作であった。田中真理片桐夕子原悦子泉じゅん鹿沼えり宮下順子谷ナオミ(初代SMの女王)、東てる美高倉美貴朝比奈順子風祭ゆき美保純ら、多くのスター女優が生れ、一般映画の女優へのステップと考える女性も多くなった。
映画興行システム

映画興行は、通常は3本立て2週間興行の体制を基本とし[7]、2本が自社製作、1本が買付け作品(ピンク映画プロダクションへの外注)であったが、正月映画およびお盆映画は、大作2本立てによるロングラン興行が行われた。上映館は旧ダイニチ映配の崩壊後に、日活系として残った旧来の「日活系」が主であり[注 1]、これには日活の直営館だけでなく、傍系の太陽企業の経営による「日活系」映画館も含まれた。なお日活では、ロマンポルノの発足を機に、成人映画の上映に適した「ミニ劇場」の新設を全国で推進し始めた[8]
表現の自由

しかし、ロマンポルノには映画創作上のメリットもあった。予算も限られ、短納期の量産体制という厳しい環境ではあったが、後にある映画監督が「日活ロマンポルノでは、裸さえ出てくれば、どんなストーリーや演出でも、何も言われず自由に制作できた」と語った様に、「10分に1回の性行為シーンを作る」「上映時間は70分程度」「モザイク・ボカシは入らない様に対処する」など[7][注 2]、所定のフォーマットだけ確実に押さえておけば、後は表現の自由を尊重した、自由度の高い映画作品作りを任された[7]

キャリアの浅い監督や脚本・演出の担当者にとっては、自身の作家性を遺憾なく発揮できる稀少な場であり、結果論ではあるが、日活にとっても斜陽期の日本映画界の中にあって、崩壊してゆくスタジオシステムを維持し続け、映画会社として、若手映画クリエイターの実践的な育成を手がけるための重要な場となった[注 3][注 4]
若手の育成

また、ロマンポルノ量産体制の維持の必要からも、若手映画人の育成は進められた[7]。1960年代後半から1980年代前半に掛けての若手映画人で、1990年代以降の日本映画界を支えた人物には、初期のキャリアとしてロマンポルノ作品が含まれている人物は別段珍しくもない。

日活ロマンポルノの中で、映画として高い評価を獲得した映画監督には神代辰巳曾根中生・小沼勝・田中登[9] などがおり、ロマンポルノのブランドから、映画監督としての主要なキャリアを出発させた人物には、村川透根岸吉太郎金子修介石井隆などがいる[7](ピンク映画や自主映画出身で、ロマンポルノに招かれた監督、日活買取配給ながら、実際は外部のピンク映画プロダクション製作で、日活撮影所とは関わっていない監督も含む)。


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