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出典検索?: "日枝久"
ひえだ ひさし
日枝 久
2014年1月21日、在日本英国大使館にて
本名日枝 久(ひえだ ひさし)
生年月日 (1937-12-31) 1937年12月31日(86歳)
出生地 日本 東京府[1]
職業実業家
ジャンルテレビ、映画、新聞
主な作品
実写映画
『南極物語』(製作指揮)
『チ・ン・ピ・ラ』(製作)
『ビルマの竪琴』(企画)
『熱海殺人事件』(製作総指揮)
『子猫物語』(製作)
『そろばんずく』(製作)
『おニャン子ザ・ムービー 危機イッパツ!』(製作)
『時計 Adieu l'Hiver』(企画)
『優駿 ORACION』(製作)
『タスマニア物語』(製作)
アニメーション映画
『タッチ 背番号のないエース』(製作)
受賞
日枝 久(ひえだ ひさし、1937年12月31日[2] - )は、日本の実業家、フジサンケイグループ代表[3]、公益財団法人彫刻の森芸術文化財団理事長、彫刻の森美術館館長、美ヶ原高原美術館館長[4][注 1]、公益財団法人日本美術協会会長(代表理事)[5]。2011年9月1日より東京文化会館館長[2]に就任、同時に公益社団法人全国公立文化施設協会 会長に就任した。同年10月20日より公益財団法人東京都歴史文化財団理事長[6]。ボーイスカウト日本連盟 元副理事長、現 顧問[7]。東京都生まれ[1]。杉並区在住。
株式会社フジテレビジョン(現株式会社フジ・メディア・ホールディングス)代表取締役社長・代表取締役会長[2]、株式会社フジテレビジョン(新社)代表取締役会長、社団法人日本民間放送連盟会長[8]、上野の森美術館館長[注 2]などを務めた。旭日大綬章叙勲。 日枝経久・廣子の長男として岡山県の旧家に生まれる[9][10]。1961年、早稲田大学教育学部を卒業、フジテレビジョンに入社[2][1]。大学内のイチョウの木の下のベンチでまどろんでいたところ、たまたま通りかかった先生からフジテレビを推薦されたことがきっかけで、創業期のプロパー社員となった[11]。 労働組合の結成に奔走し、書記長に就任[11]。25歳定年制だった女性社員の待遇改善を組合結成の重要な大義としたため、同社の非プロパーの年長社員が吉永小百合と結婚したことに衝撃を受けたあげ句の人気とりだと謗られ、人事でも左遷されたが腐らずに意欲的に働いた[11]。 副社長に就任した鹿内春雄に抜擢され、42歳の若さで1980年5月に編成局長に就任。鹿内春雄との二人三脚でフジテレビの黄金時代をけん引する。1983年6月に取締役編成局長となる[2]。1986年6月、常務取締役総合開発室担当に就任[2]。1988年6月、代表取締役社長に就任[2]。2001年6月、フジテレビジョン代表取締役会長に就任[2]。また、2003年4月から日本民間放送連盟会長を務めた[2]。2008年10月、認定放送持株会社となったフジ・メディア・ホールディングスの子会社として新設されたフジテレビジョンの代表取締役会長に就任[2]。 2017年5月10日、代表権のない相談役に退任すると報じられた。同年6月の株主総会後に開かれる取締役会で正式に決定した[12][13]。 2010年2月25日、マルチメディア・マルチチャンネル時代に日本の放送産業発展をリードし、日韓間の文化コンテンツ産業発展などに寄与した功労が評価され、高麗大学校より名誉経営学博士号が授与された[14]。また、同年4月には早稲田大学からも名誉博士号を授与された[1][15]。2013年11月に旭日大綬章を授与された[16]。2014年にはイギリスより大英帝国勲章ナイト・コマンダー章を授与された[17][18]。 ある会合の席で日枝と同じく少年時代にボーイスカウトだったソニーのハワード・ストリンガー会長と一緒になったとき、ネッカチーフがわりに首にナプキンを巻きつけ、スカウトの敬礼である三本指を立てたところ意気投合したと語るほどのスカウトびいきである[11]。 安倍晋三とは度々会食したり、山梨県のゴルフ場でゴルフをしていた(首相動静より)。安倍は逆にフジテレビやニッポン放送の番組に出演しており、他の新聞社より産経新聞本紙・僚紙の独占インタビューに応じることが多く、安倍の没後に国会議員となった甥の岸信千世はフジテレビの社員であった[19]。また、産経新聞社出身の森喜朗とは盟友関係にある。 2005年3月、日枝が代表取締役会長を務めるフジテレビジョン(旧会社)の筆頭株主でありフジサンケイグループの中核企業であるニッポン放送の経営権を危うくしたことについて、日枝の経営責任の可能性をBloombergは示唆した[21]。 ライブドア事件で、ライブドアの第三者割当増資を引き受けたフジテレビはライブドアに損害賠償を提起したが[22][23]、雑誌『AERA』記者の大鹿靖明は、フジテレビが増資を引き受ける際に1ヶ月もかけて資産査定をしたのに、ライブドアの自社株還流スキームを見つけられなかったことに疑問を呈している。実際、日枝はそのことを問われたが、「法務、財務の専門家にきちんとみていただいた。専門家の皆さんの名誉を傷つけることはできない」とだけ語ったという[24]。2006年6月の第65回定時株主総会に出席した株主からも、ライブドア事件の影響による株価急落について経営責任を問う声があった[25]。 2005年9月にフジテレビはニッポン放送の完全子会社化を完了した[26]。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
来歴
人物2014年1月21日、日本駐箚英国特命全権大使ティモシー・ヒッチンズ(左)から大英帝国勲章ナイト・コマンダー章を渡される
家族
妻・加寿子(青山学院短大卒、東洋電機製造元常務・滝沢七郎の次女)[9][20]
長男・広道[9]
批判詳細は「ニッポン放送の経営権問題」を参照
略歴
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1961年 - フジテレビジョン(現フジ・メディア・ホールディングス)入社[27]。
1980年 - フジテレビジョン編成局長。
1983年 - フジテレビジョン取締役編成局長。
1986年 - フジテレビジョン常務取締役総合開発室担当。
1988年 - フジテレビジョン代表取締役社長。
1989年 - サンケイビル取締役(現任)。
1992年 - グループ企業である産業経済新聞社の取締役会で鹿内宏明会長の解任決議が成立するよう差配した中心メンバーのひとりとなる。