日本青年館ホール
NIPPON SEINEN-KAN HALL
日本青年館
(2017年7月2日撮影)
情報
通称青年館
正式名称日本青年館ホール
完成2017年7月
開館2017年7月31日
開館公演宝塚歌劇星組『阿弖流為-ATERUI-』東京公演
客席数1249席
設備多目的ホール、ホテル・宴会場・会議室・レストラン・駐車場
運営株式会社ニッセイ
所在地〒160-0013
東京都新宿区霞ヶ丘町4番1号
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度40分34.1秒 東経139度42分54秒 / 北緯35.676139度 東経139.71500度 / 35.676139; 139.71500 (日本青年館ホール)座標: 北緯35度40分34.1秒 東経139度42分54秒 / 北緯35.676139度 東経139.71500度 / 35.676139; 139.71500 (日本青年館ホール)
最寄駅東京メトロ銀座線「外苑前駅」下車徒歩5分
最寄バス停都バス「霞ヶ丘」下車徒歩5分
最寄IC首都高速4号線「外苑出入口」下車
外部リンクhttps://nippon-seinenkan.or.jp/seinenkan/
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日本青年館(にっぽんせいねんかん、英: Nippon seinenkan)は、東京・神宮外苑地区にあり、多目的ホール、ホテル・宴会場・会議室・駐車場などを備える複合施設。一般財団法人日本青年館が運営する。1925年(大正14年)に青年団のための施設として開館した[注 1]。 2020年東京オリンピック用地として使われるため、1979年(昭和54年)に改築・完成した二代目日本青年館を解体。敷地を明治神宮野球場前に移し、2017年(平成29年)8月1日にグランドオープン。建物は地上16階・地下2階、建物高さは70mとなり、総客室数220室のホテルや1,250席のホールなどを備えている。その他、館内にはレストラン、宴会場、会議場などがあり、宿泊、食事、結婚披露宴、各種会議、コンサート、講演会、研修などに使用される。 全国の青年団関係者にとっては80年以上にわたる青年団運動の総本山として位置づけられる重要な施設である。館内には日青協の事務局が入居しており、日青協主催行事はここで開催されることが多い。また、特に終戦前後の青年団全国組織の空白期には、日本青年館が全国の青年団を結ぶ役割を果たすなど、施設面だけでなく、青年団を助長する財団としての活動も重要である。現在も全国青年大会などの日青協との共催事業を始め、職員の雇用や青年問題研究所の活動など、日青協との関わりは深い。 また、各種青少年団体事務局が入居しているほか、青少年の育成に関する事業を展開している。 2017年(平成29年)7月31日から8月6日まで日本青年館ホールの?落とし公演として宝塚歌劇星組『阿弖流為-ATERUI-』東京公演が行われた[1]。同年8月1日、日本青年館ホテルがグランドオープン[2]。 東京都新宿区と港区にまたがる神宮外苑地区に位置し、東京メトロ外苑前駅が最寄り駅(徒歩5分)となる。JRの信濃町駅や千駄ケ谷駅、都営地下鉄国立競技場駅などからも徒歩圏内(10 - 12分)にある。神宮球場とは道路を隔てて向かい側にあり、球場側に面したホテルの客室からは球場を一望することが可能である。近傍には日本スポーツ協会・日本オリンピック委員会新本部(ジャパン・スポーツ・オリンピック・スクエア)、国立競技場、明治公園、秩父宮ラグビー場、聖徳記念絵画館、神宮外苑、東京体育館、新宿御苑などがある。
概要
立地
沿革
1920年(大正9年) - 全国の青年団員の募金等による拠出により初代日本青年館建設の議が起こる。
1921年(大正10年) - 財団法人日本青年館が文部省(当時)より設立認可。初代理事長は近衛文麿、理事に田澤義鋪ら。
1925年(大正14年) - 10月の日本青年館開館式において、田澤義鋪が『道の国日本の完成』と題する記念講演。
1934年(昭和9年) - 田澤義鋪が理事長となる。
1938年(昭和13年) - 大日本運動の結成式で使用される(2月21日)。
1945年(昭和20年) - 連合国の1国であるアメリカ軍により接収(1953年(昭和28年)まで)。
1949年(昭和24年) - 4-9月にかけて、GHQ裁判(豊田裁判)の軍事法廷が置かれる[3]。
1964年(昭和39年)
安藤昇が安藤組の解散式を執り行う。
東京オリンピックでプレスセンターとして使用される。