「進歩党 (日本 1896-1898)」あるいは「進歩党 (日本 1987-1993)」とは異なります。
日本の政党日本進歩党
初代総裁・町田忠治
成立年月日1945年11月16日
前身政党大日本政治会[1][2][3]
解散年月日1947年3月31日
解散理由保守新党結成のため[4]
後継政党民主党[4]
政治的思想・立場保守主義[4][5][6][7]
民主主義[6]
反共主義[4]
国体護持[4]
統制経済[8]
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日本進歩党(にほんしんぽとう)は、終戦直後に結成された保守政党(1945年11月16日 ‐ 1947年3月31日)。 1945年11月16日に旧大日本政治会を母体として結党[1][2][3]。その多くが旧立憲民政党から大政翼賛会に移った議員であり、民政党最後の総裁であった町田忠治を総裁として、幹事長に鶴見祐輔、総務委員に斎藤隆夫ら10名、政務調査会長に太田正孝を任じた。ただ、結党当初高齢の町田(当時82歳。日本憲政史上国会議員を擁する新党の党首として最高齢記録)に代わって陸軍大将の宇垣一成を総裁に擁立する構想があり[9]、「国体護持」や統制経済の維持を掲げるなど[8]、帝国憲法体制擁護の主張が強いものとなった。 翌年1月の公職追放令によって町田以下、274人中260人が公職追放され[10]、残ったのは斎藤隆夫総務委員・犬養健・逢沢寛・一松定吉・保利茂(なお犬養・保利は後に追放された)らわずか14人の議員だけであった。 しかし、同年4月の総選挙では追放された候補者の代わりに新人を多数擁立する[11]。結果94人を当選させるも、日本自由党に次ぐ第2党に転落した[12]。斎藤らは民政党やその前身であった旧立憲民政党の内閣で外務大臣を務めた事もある幣原喜重郎首相を総裁に擁立することで幣原内閣の延命を図ったが、猛反発を受けて失敗した。
党史