日本語ロック論争
[Wikipedia|▼Menu]

この記事には複数の問題があります。改善ノートページでの議論にご協力ください。

出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2021年4月)


出典脚注などを用いて記述と関連付けてください。(2021年4月)


中立的な観点に基づく疑問が提出されています。(2021年4月)


独自研究が含まれているおそれがあります。(2011年4月)
出典検索?: "日本語ロック論争" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL

日本語ロック論争(にほんごロックろんそう)は、1970年代初めに起きた日本語ロック音楽の関係性についての論争である。
解説

この節には複数の問題があります。改善ノートページでの議論にご協力ください。

出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2021年4月)


中立的な観点に基づく疑問が提出されています。(2021年4月)


独自研究が含まれているおそれがあります。(2011年4月)


経過は音楽雑誌ニューミュージック・マガジンなど活字メディアで行われた意見交換がある。

「日本語ロック論争」は、日本語で歌うべきか、英語で歌うべきかが「議論」された。日本語はロックのメロディーに乗らないという説に、英語派であるミュージシャンは海外成功目標で英語は不可欠という論拠の内田裕也(と、その牽引していたフラワー・トラベリン・バンド)、グループ・サウンズ時代から活動するザ・モップスは英米追随ながら本物のロック音楽志向という立場である。日本語派はっぴいえんど[注釈 1]、その前身エイプリル・フールから移行発展するなか[注釈 2]うたごえ運動の流れを汲むボブ・ディランらに影響を受けたフォーク岡林信康ら、日本語で歌うアーティストが次世代音楽(ポップス、またはニューミュージック)に進展する中起こった「議論」がある。
一連の流れ

1969年7月にTBSのテレビ番組「ヤング720」に内田裕也とザ・フラワーズの内田、麻生レミエイプリル・フール在籍中の細野晴臣が出演し、インタビューの「これからの抱負は?」という問いに細野は「来年は日本語とロックを結納する。」(または「来年は日本語とロックを融合する。」)と発言している(出典「定本はっぴいえんど」)。

『新宿プレイマップ』1970年10月号「ニューロック座談会」(出席者:内田裕也鈴木ひろみつミッキー・カーチス大滝詠一、中山久民 司会:相倉久人)、『ニューミュージック・マガジン』1971年5月号「日本のロック情況はどこまで来たか」(福田一郎中村とうよう、ミッキー・カーチス、内田裕也、折田育造小倉エージ、大滝詠一、松本隆)が発端。

議論とは名ばかりとの意見がある。英語で歌っていたミュージシャンが一方的に日本語で歌っているミュージシャンに難癖をつけた、という意見である。論争と扱われたきっかけは『ニューミュージック・マガジン』で発表された日本のロック賞の上位にランクされたのが、主に日本語で歌っているアーティスト、特にURCレコード(主にフォーク系のアーティストの作品をリリースしていたレーベル)のアーティストが上位を占め、英語で歌っているアーティストが選ばれなかった事に始まったといえる[1]。この対談で内田裕也は「(はっぴいえんどの)「春よ来い」にしたって、よほど注意して聞かないと言ってることがわからない。歌詞とメロディとリズムのバランスが悪く、日本語とロックの結びつきに成功したとは思わない」と音楽的な指摘をしている一方で「去年の『ニューミュージック・マガジン』の日本のロックの1位が岡林信康で、今年ははっぴいえんど、そんなにURCのレコードがいいのか? 僕達だって一生懸命やってるんだと言いたくなる」と本音を吐いている。また対する松本隆は、ロックに日本語の歌詞を乗せる事に未だ成功していない事をあっさりと認めたうえ、「フラワー・トラベリン・バンドやザ・モップスについてどう思うのか?」との内田からの挑発に近い問いに「僕達は人のバンドが英語で歌おうと日本語で歌おうとかまわないと思うし、音楽についても趣味の問題だ」[注釈 3]と全く意に介さずと言った発言をしており、両者の間には明確な温度差があった。また内田以外の参加者ははっぴいえんどを絶賛し、興奮する内田をなだめる事に終始しており事実上、議論は成立していない様に見えた。
収束

英語で歌っている側からの一方的な批判だったこともあり、はっぴいえんどがアルバム『風街ろまん』で、ロックのメロディーに日本語の歌詞を乗せるという事に一応の成功を収めた頃には、論争らしき事態は沈静化していた。フラワー・トラベリン・バンドがカナダ経由で海外進出しアトランティック・レコードと契約するなどそれぞれが主張通り体現したことによる。

1972年12月、キャロルがデビューして、日本語英語チャンポン歌詞+矢沢永吉の「巻き舌唱法」で商業的な成功を収めると[2][3][4]"日本語ロック論争"は、何語で歌うかは問題外になり、それまでのナンセンスな論争も、ロックの精神性云々を問う思想問答も一蹴された[2][3][4]。この1972年以降の流れで「日本語でロックを歌うのはバカ」と言い放っていた鈴木ヒロミツのバンドザ・モップスも日本語詞の川内康範作詞の月光仮面や吉田拓郎作「たどりついたらいつも雨ふり」などカバーがヒット曲になる事態が起り[注釈 4](ここまでにモップスは阿波踊りを取入れ「いいじゃないか」という日本語を織り交ぜた英詞曲「御意見無用」や「パーティシペーション(参加)」と「迷子列車」という同じ曲で英詞と和詞というバージョンの実験を試みていた。)「新譜ジャーナル」の編集長を務めた鈴木勝生は、「日本語でうたう運動そのものが影を薄め、日本語でうたうのが当たり前という時代を迎えたのは1972年、(フォークの)吉田拓郎が「結婚しようよ」「旅の宿」の2曲の大ヒットした以降で、そのためか、1970年9月から東京日比谷野外音楽堂で年に2回開かれ多くのフォークとロックのアーティストを育てた“日本語のふぉーくとろっくのコンサート”も1972年5月で終了した」[5]と論じている。

この時期のロック音楽呼称でニュー・ロック[注釈 5]、(実際は、レコード会社の宣伝文句「ニュー?」の一つに過ぎなかった)、欧米のサイケデリック・ロック影響経てハード・ロックカントリー・ロックロックンロールを指向するグループ、ソロ・アーティスト達に使われた。また「フォークとロックの確執」が存在し「西(関西)がフォーク、東(東京)は、ロックで、(はっぴいえんどは、)どっちつかずのコウモリ(と揶揄された)。」との細野の発言も残されており(「はっぴいえんど」項目参照)、こちらのわだかまり解消は、「岡林信康」の伴奏を「はっぴいえんど」が務めるなど歩み寄りは進んでいた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:72 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef