日本経緯度原点
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日本経緯度原点。中央の金属標が原点の位置。原点の両脇にある黒い石版の位置には関東大震災で崩壊した、子午環の架台があった。

日本経緯度原点(にほんけいいどげんてん、Japanese origin of longitude and latitude[1])は、日本国内の測量の基準点。東京都港区麻布台二丁目に位置する[2]

1892年、当時この場所にあった東京天文台の子午環(観測装置の一種)の中心が日本における経緯度原点として定められた。子午環そのものは1923年の関東大震災で大破し、のちにその跡地に原点を示す金属標が設置された。国土地理院関東地方測量部が管轄する現用施設である一方で、史跡として港区指定文化財にも指定されている。
概要(参考)類似の子午環[注釈 1]
東京天文台にあったメルツ・レプソルド子午環の写真は出典[3](pdf)に示されている。

日本経緯度原点は、1892年(明治25年)に参謀本部陸地測量部によって定められた。当時この場所には帝国大学付属東京天文台(前身は海軍観象台。現在の国立天文台の前身)があり、その子午環(天体が子午線を通過する時の高度角を測定する特殊な望遠鏡)[4]の中心が原点とされたのである。しかし1923年(大正12年)の関東大震災により、東京天文台の子午環は崩壊してしまったため、その跡地に日本経緯度原点を示す金属標が設置された。

日本経緯度原点の経緯度の数値は、日本測地系の基準として約100年にわたり変わらず用いられた(ただし経度は1918年に1度修正された)。2002年に世界測地系が導入されたことにより、「日本経緯度原点」の経緯度は地球重心を原点とする数値に変更された。現在(2019年2月時点)の数値は、2011年の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)後に改訂されたものである。

測量法には「測量の原点は、日本経緯度原点及び日本水準原点とする」(第11条)と規定され、測量法施行令によって日本経緯度原点の経緯度および原点方位角の数値が規定されている。また、国土交通省の告示によって「地心直交座標系における日本経緯度原点の座標値」が定義されている。
定義
測量法の定める経緯度・原点方位角

測量法施行令により、東京都港区麻布台二丁目18番1地内にある日本経緯度原点金属標の十字の交点」と定められている(第2条第1項第1号)。基準数値は以下のように定められている(第2条第1項第2号)[5]

経度:東経13944288869

緯度:北緯35度39分29秒1572

原点方位角:32度20分46秒209(前号の地点において真北を基準として右回りに測定した茨城県つくば市北郷一番地内つくば超長基線電波干渉計観測点金属標の十字の交点の方位角)

以上の数値は2001年の測量法改正で採用された世界測地系にのっとり、最新の宇宙測地技術を用いて測定したものを、2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震の影響により定義し直したものである(後述)[6]

原点方位角(原方位ともいう。)とは、要するに「真北はどちらか」の基準になるものであって、日本経緯度原点と国土地理院敷地内の「つくば超長基線電波干渉計観測点金属標の十字の交点」との方位関係を定めるものである(第2条第1項第2号)[7]
地心直交座標系による定義

国土地理院は、日本経緯度原点の地心直交座標系を次のように定義している[8]。この値も、東北地方太平洋沖地震の影響により2011年10月21日に定義し直されたものである。X軸 ?3959340.203 mY軸 3352854.274 mZ軸 3697471.413 m
沿革

経緯度原点の決定に至る経緯は、関東大震災による資料の焼失により一部判然としない部分があるといい[9]、また年代についても文献によって一部食い違いがあるという[9]
前史
明治初年の測量事情「本初子午線#日本における本初子午線」、「日本の三角測量の歴史」、および「経度の歴史」も参照柳楢悦。初代水路局長

明治初年、海軍や工部省・内務省などさまざまな機関が近代測量を導入したが、政府内で測量原点の統一が図られているとは言い難い状況にあった。

海図作成を必要とした海軍は、1871年(明治4年)7月28日[注釈 2]水路局を設立[注釈 3]。1872年(明治5年)4月24日の太政官布告130号で、海軍省ではグリニッジ子午線を本初子午線として採用し、築地の海軍省用地(のちの築地市場付近)に設けた海軍省標竿を東経139°45′25.05″と定め、これを日本の測量の基準とするという方針が布告された[10][11][注釈 4]

一方、国内行政のための地図製作も必要とされ、1872年(明治5年)3月に工部省測量司は測量師長マクヴィンらの指導のもと東京府下で三角点の設置と測量を開始する[12]:1。この時、最初の三角点が皇居江戸城)富士見櫓に置かれた[12]:1。工部省測量司は1874年に内務省に移管され、のちに内務省地理局となる。内務省地理局は、当初は富士見櫓を通る子午線を経度0度(本初子午線)とし[12]:2、次いで1877年(明治10年)に溜池葵町(現在の港区虎ノ門)に設置した観象台を、さらにその後1882年(明治15年)に旧江戸城本丸天守台を、経度の起点に改めた。
海軍観象台における観測

1872年(明治5年)11月、海軍水路寮は芝区飯倉に土地を購入、小規模な観測施設を設けた[10]。これが海軍観象台の始まりとなる。観象台は以後土地と施設を拡充した。チットマン

1874年(明治7年)12月、金星の日面通過が約100年ぶりに発生した。この天体現象からは地球と太陽の間の距離(1天文単位)が測定できるため、欧米各国は世界各地に観測隊を派遣した。日本は観測の好適地の一つであり、フランス、アメリカ、メキシコが観測隊を派遣した。アメリカからの観測の申し入れを受けた水路局は、これに積極的に応えるとともに、技術習得に当たった。

ジョージ・ダビッドソン率いるアメリカ隊は、長崎市の星取山で金星の日面通過を観測した[13]。長崎では電信法による経度測定が可能であり[注釈 5][13]、アメリカ隊はウラジオストクと長崎の経度差を計測した。日面通過の観測後、日本側(柳楢悦大佐)の要請に応じ、アメリカ隊は隊員のチットマン(英語版)(合衆国沿岸測地測量局(英語版)[注釈 6]局長)とエドワーズを派遣して、長崎・東京間の経度差を測定した[13]。この時、東京での観測は海軍観象台敷地内に従来からあった石盤上を選定して行われた[13]。のちにチットマン点と呼ばれる一地点である(現在の経緯度原点の東5.1mに位置する[13])。


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