一般財団法人日本禁酒同盟(にほんきんしゅどうめい、英名:Japan Temperance Union)は、酒害に関する知識を普及し酒害の予防及び酒害者の救済を目指す団体。元文部科学省所管の財団法人。
明治期の禁酒運動にルーツを持つ組織で、1890年に「東京禁酒会」の会長に就任した安藤太郎を初代理事長と位置づけている[1](1890年は各地の禁酒団体が集まった集会「第一回大日本禁酒同盟会」が開催された年でもある)。1898年に全国組織として「日本禁酒同盟会」が発足、1920年に財団法人「日本国民禁酒同盟」となった[1]。「日本禁酒同盟」という名称となったのは第二次世界大戦後である。本項では前身組織も含めて説明する。 日本禁酒同盟では宗教宗派・政党政派に偏らない運動を通し、酒害のない社会づくりを掲げている[2]。 この法人は、宗教宗派、政党政派に偏せず、酒害に関する知識を普及し酒害の予防及び酒害者の救済に努め、もってわが国民の健全なる心身の育成に寄与することを目的とし次の事業を行う 1875年(明治8年)に横浜で奥野昌綱を議長として組織された「禁酒会」(第一次横浜禁酒会[3]:16)が日本人による最初の禁酒運動組織とされる[4]。奥野らの禁酒会は「キリスト教の伝道の一環」[3]:16として組織されたもので、結果的に短命に終わったが[4]、影響を受けて故郷で禁酒会を組織する者も出た[3]:17。 1876年(明治9年)、札幌農学校教頭に赴任したクラークは生徒にキリスト教への入信を勧めたが、「イエスを信ずる者の契約」とともに「禁酒禁煙の誓約書」も交わしている[3]:17。誓約を行った一期生の中には、のちに日本国民禁酒同盟理事長(第3代)となる伊藤一隆がいる[3]:17。 1881年(明治14年)に西本願寺が設立した普通教校(僧侶と一般の学生がともに学ぶ学校。龍谷大学の前身)では、高楠順次郎らにより「禁酒進徳」をスローガンとする学生団体「反省会」[注釈 1]が組織された[3]。 1883年にアメリカで組織されたキリスト教婦人矯風会
概要
禁酒問題の調査研究及びその公表
禁酒思想普及宣伝のための講演、講習、映画、展覧会等の開催及び斡旋
青少年に対する禁酒教育
禁酒教育及び酒害者の救済を行う施設の設置、運営
全国禁酒団体並びに同志者との連絡提携
国際機関との連絡協力
その他この法人の目的達成に必要な事項[2]
歴史
日本における初期の禁酒運動「禁酒運動#日本の禁酒運動」も参照
のちに東京禁酒会会長・日本禁酒同盟会会長となり、日本禁酒同盟の「初代理事長」に位置づけられる安藤太郎(1846年 - 1924年)[注釈 2]は外交官である。安藤は4,5歳の頃から酒を飲みはじめたかなりの鯨飲家であり[4]、このために文子夫人が相当に苦労したと伝えられる[4]。1886年(明治19年)、安藤はハワイ王国に総領事として赴任した[4]。当時のハワイの日本人移民社会[注釈 3]は荒んでおり、飲酒に溺れる者も少なくなかった[3]:21。安藤も日本人社会に模範を示すべく禁酒をすることがよいことであると理解しつつ、踏ん切りがつかなかったという[4]。
ハワイの日本人社会の状況を聞いた、サンフランシスコのメソジスト教会牧師美山貫一はハワイに移り、日本人移民の生活向上に尽力する[3]:21。文子は美山貫一から米国の禁酒運動について話を聞き、禁酒は可能であり、また米国には一生禁酒を貫く人がいることを知る[4]。1887年(明治20年)12月、文子夫人は、安藤のもとに届いた2樽の日本酒[注釈 4]を処分[4](「樽割り」と称される)。安藤もこれを好機として禁酒をすることにしたという[4]。なお、美山の影響を受け、安藤夫妻をはじめ領事館の館員が全員受洗する[3]:21。
1888年(明治21年)4月、安藤はハワイで「在布哇日本人禁酒会」を設立した[3]:21。