日本発送電
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日本発送電株式会社
Japan Electric Generation and Transmission Company種類株式会社
日本発送電株式会社法による特殊会社
略称日発
本社所在地 日本
東京都文京区小石川町一丁目1番地11
設立1939年昭和14年)4月1日
業種電気・ガス業
特記事項:この欄の出典は『会社四季報昭和26年第2集』(東洋経済新報社、1951年3月)のp. 56
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日本発送電株式会社法

日本の法令
法令番号昭和13年法律第77号
種類行政手続法
効力失効
成立1938年3月26日
公布1938年4月6日
施行1938年8月10日
主な内容戦時統制経済の導入
関連法令国家総動員法電力管理法など
条文リンク官報 1938年4月6日
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日本発送電株式会社(にっぽんはっそうでん)は、1939年昭和14年)から1951年(昭和26年)までの間に存在した日本電気事業を司った特殊会社である。国家総力戦体制を構築しようとする当時の日本政府の電力国家管理政策に基づき、東京電燈日本電力など全国の電力会社現物出資合併によって設立された半官半民のトラストである。

略称は「日発」(にっぱつ・ニッパツ)、また英語表記は、Nippon Hassoden K.K. あるいは Japan Electric Generation and Transmission Company であった。
発足の経緯

1932年(昭和7年)4月、後述のいわゆる五大電力会社が電力連盟というカルテルを発足させた。これが日本発送電の土台となった。五大電力会社は関東大震災のときに巨額の外債を発行していたが、1931年(昭和6年)12月の金輸出再禁止がもたらした為替低落により、急に外債利払い負担が増えた。そこへ逓信省が電力連盟の結成をはたらきかけ、連盟規約8条の顧問には池田成彬各務鎌吉結城豊太郎・八代則彦(やつしろのりひこ[注釈 1])が推された[注釈 2]

政府側電気委員会は連盟から提出された意見書も加味して、1933年(昭和8年)7月に料金認可制を敷いた。連盟は多くの点で委員会から独立して活動した。以下は具体例。担保付社債信託法の改正要求、外債打撃対策の推進、東西電力融通の決定(電力広域的運営推進機関も参照)、火力発電所用石炭の共同購入、中国大陸での電力統制、電力国家管理案への反対など[1]

松永安左エ門は連盟の中心的役割を演じたが、連盟は多方面で交渉し、コスト削減を実現した。1933年(昭和8年)4月の担保付社債信託法改正、同年5月・翌年4月の外債買入償却用海外送金許可、東電・東信電気・日電間の電力融通、撫順炭(撫順襲撃事件も参照)の共同購入、関西共同火力の拡張と中部共同火力の設立等である。
電力行政の誕生大井発電所(左)と大井ダム岐阜県木曽川)。建設を巡って起こった宮田用水事件はその後の電力行政に影響を与えた。

日本の電気事業は、1882年(明治15年)に藤岡市助らによって東京電燈が設立請願された時を以って誕生した。その後1887年(明治20年)には日本橋に発電所が建設され、付近のごく限られた地域ではあったが送電を開始している。その後神戸電燈大阪電燈名古屋電燈京都電燈などが相次いで設立され、日清戦争の勝利によってその勢いはさらに加速した。

こうした会社の電気事業に対応する法制度は当初存在しなかった。1891年(明治24年)1月、帝国議会仮議事堂火災事故が発生し、仮議事堂が全焼した。この火災の原因は正確な所不明ではあるものの、電灯用の設備が漏電を起こして出火したのではないかという見方が出た。これを機に警視庁は保安上の対策を行う上で電気事業を監督するための法令を12月に制定した。この「電気営業取締規則」が日本における電力関連法規の第一号であった。その後全国各地で勃興する電力会社の監督を円滑に図るべく、監督官庁を警視庁から逓信省[注釈 3]へと移し、1896年(明治29年)5月に「電気事業取締規則」が発令され、発電・送電・配電の全てにわたって電気事業者に保安などの義務を課すこととした。これ以降、電力行政は逓信省の流れをくむ商工省、通商産業省、経済産業省が掌ることになる。

1907年(明治40年)には、東京電燈が山梨県に本格的な水力発電所である駒橋発電所を稼働させた。電源開発の促進は、富国強兵の観点からも政策として促進され、1910年(明治43年)には全国の河川を対象に包蔵水力の調査を組織的かつ大規模に実施した第一次発電水力調査が行われた。同時に翌1911年(明治44年)には電気事業法が施行され、電気事業者の公益性が確立。同時に発電用水利権や土地立入権、山林伐採権などあらゆる権利が保障された。同法の成立以後、各電力会社は競って大規模なダム式水力発電所の建設を行い、福澤桃介による大井ダム(木曽川)の建設など、全国各地で発電用ダムの建設が行われた。

1914年(大正3年)には猪苗代水力電気が福島県の猪苗代第一発電所から東京都北区田端まで約225キロメートル区間にも及ぶ長距離高圧送電に成功し、送電技術も確立されていった。大正時代に入ると電力会社間の競争が激化し、やがて東京電燈、東邦電力大同電力宇治川電気日本電力のいわゆる「五大電力会社」が誕生。これらを中心として木曽川信濃川飛騨川天竜川庄川などで水力発電の開発が進められていった。

ところが、こうした電力開発に対して、旧来から慣行水利権などを保有していた地元とのあつれきが激化し、各地で紛争が勃発した。特に大井ダム建設に伴う取水口水没に端を発した宮田用水事件(1924年 - 1939年)や、慣行流木権を巡り法廷闘争にまでもつれ込んだ庄川流木争議1918年 - 1933年)などは、電力会社と地元の紛争が長期化した例として知られている。

こうした紛争に対して電気事業法では対応が出来なかった。このため河川行政を管轄する内務省[注釈 4]1926年(大正15年)8月26日に河川行政監督令を発令。ダムや水力発電所、及びそれに関連する施設で河川に設置するものは全て内務大臣許認可とすることで一応の解決を見た。この内務省の電力行政への介入は、後の電力国家統制の端緒ともなった。
国家統制への道程

1926年、その後の河川行政を大きく転換させる一つの私案が発表された。東京帝国大学教授で内務省土木試験所長の職に就いていた物部長穂による河水統制計画案がそれである。物部はこの案において、「治水洪水調節)と利水(上水道、農地灌漑、水力発電)を総合的かつ効率的に行うためには多目的ダムによる河川開発が最も有用であり、これを有効に行うためには水系一貫の開発が望ましい」と主張した。これは後に河川総合開発事業と名を改め、現在に至るまで日本における河川行政の基本となっている。さらにこの中で物部は、「これら河川施設を有機的に運用するには、公平な立場に立脚している河川事業者、すなわち国家による統制が望ましい」とした。この河水統制計画案は、内務省内務技監で当時日本における河川行政の第一人者であった青山士(あおやま・あきら)によって採り上げられ、以後内務省はこの物部案を国策として強力に推進する姿勢に転じた。同時期、鶴見騒擾事件を始めとした無秩序で激烈な市場争いを繰り広げていた電力業界に対し、逓信省官僚の中には「民間には電気事業を任せられない」と考える者も出始めていた。

1927年(昭和2年)、電力業界を監督する逓信省電気局は、新進気鋭の官僚9名を選び内部組織である「臨時電気事業調査部」を設置、今後の電力行政について新たなる方針を検討するよう指示した。そして翌1928年(昭和3年)の秋に最終結果が答申された。その内容とは、後の日本発送電につながる半官半民の国策会社を設立してそこに電力開発を全て委ね、資源の適正開発と低廉な電気料金による安定供給を行うことが重要であるというものであった。逓信省はこの答申をさらに検討した上、1932年(昭和7年)4月に電気事業法を改正した。12月には施行にともない、電力資本の利益に寛容な電気委員会を設置した。1937年(昭和12年)より第三次発電水力調査を実施したが、その根幹にあったのは、先に物部が発表し内務省が国策とする河水統制計画に則った、水系一貫の多目的開発に沿った水力発電開発調査であった。このころから次第に、内務官僚や逓信官僚は、重要な電気事業を河川事業と同様に国家管理として統制するという方向性を持ち始めていた。

当時日本は満州事変の勃発以降、軍部が次第に台頭していった。特に台頭していたのは「統制派」と呼ばれるグループであった。彼らは自由主義経済を否定して国家による統制経済を行うことで戦時体制を構築・強化して行くことを主眼においていた。五・一五事件二・二六事件を経て対立する皇道派粛清することで実権を獲得した東條英機ら統制派の面々は、私企業の利益より公益を優先することを主張していた企画院や内務・逓信官僚などと結託し、本格的な統制経済を構築し始めた。そしてその標的となったのが電気事業であり、1938年(昭和13年)、第73回帝国議会に「電力国家統制法案」が上程されたのである。
電力管理法

電力管理法

日本の法令
法令番号昭和13年法律第76号
種類行政手続法
効力廃止
成立1938年3月26日
公布1938年4月6日
施行1938年5月25日
主な内容戦時統制経済の導入
関連法令国家総動員法配電統制令など
条文リンク官報 1938年4月6日
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「電力国家統制法案」は、1938年(昭和13年)1月19日第1次近衛内閣において、内閣調査局により、国家総動員法案などと共に提出されたが、法案成立過程においては、国策研究会が会内部に委員会を設置し、それまでの頼母木案の修正を図った[2]日中戦争が次第に激化するに連れ、現状では戦時体制の維持が図れないとする軍部の意向が強く反映されていた。

この「電力国家統制法案」は三つの法案からなる。「電力管理法案」・「日本発送電株式会社法案」そして「電力管理に伴う社債処理に関する法案」であったが、特に重要だったのが電力管理法案であった。これは電力会社・道府県・民間企業の全てを対象に、日本に存在する全ての電力施設を国家が接収・管理するという趣旨の法案である。そして接収した電力施設は「半官半民」である日本発送電株式会社によって管理し、一元運営を行うとするものであった。

この法案に対して、電力業界は当然のことながら猛反発した。特に東邦電力社長で「電力王」の異名を持つ松永安左エ門は、1933年の講演において軍部に追随する内務・逓信官僚を「人間のクズである」と痛烈に非難した。だがこうした電力業界の反発は当時絶大な権力を持った軍部によって抑圧され、「人間のクズ」発言をした松永は軍部から危険人物としてマークされるに至った。松永は企画院総裁であった鈴木貞一の助言によって隠退し、以後正面を切って法案に反対する勢力は居なくなった。一方議会では日本発送電の資金調達に対する財源や、低廉な電気料金の現実性を巡って意見が紛糾。原案は否決されて衆議院で修正案が提出されたものの、貴族院でさらに再修正されるなど法案の成立には紆余曲折があった。

被収用業者に新会社の株式または社債を交付するというのは、公用徴収の精神である完全賠償に反するという批判に対しては、政府は、「新会社の社債または株式は新会社の採算が確実であるのだから完全賠償である」と反論した。また「本法を成立させる理由は、そもそも電力はその性質上、公益的、独占的であり、わが国は天然資源に乏しく、石油、石炭のような燃料に恵まれず、ただ電源である天然水力には恵まれており、電力事業を民間経営に任せておくと採算上、水力の完全利用が望まれず、地方によって料金が不同であるから、本法によって、水力の完全利用を実現させ、料金を低廉ならしめ、農村電化の実現もあわせて企図するものである」と説明した。

最終的には衆議院と貴族院での両院協議会で調整されて、3月26日に成立。4月6日公布された(昭和13年法律第76号)。5月25日に第5条が、8月10日に第1・2条が、他は1939年3月18日施行された。


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