日本生命硬式野球部チーム名(通称)日本生命、日生
加盟団体日本野球連盟
加盟区分企業チーム
創部1929年
チーム名の遍歴
日本生命 (1929 - )
本拠地自治体
大阪府大阪市 (1929 - )
練習グラウンド日本生命貝塚グラウンド(大阪府貝塚市)
チームカラー赤色
監督梶田茂生
都市対抗野球大会
出場回数62回
最近の出場2023年
最高成績優勝(4回)
日本産業対抗野球大会
出場回数18回
最近の出場1973年
最高成績優勝(1回)
社会人野球日本選手権大会
出場回数39回
最近の出場2023年
最高成績優勝(3回)
全日本クラブ野球選手権大会
出場回数※出場資格なし
日本生命硬式野球部(にほんせいめいこうしきやきゅうぶ)は、大阪府大阪市に本拠地を置き、日本野球連盟に加盟する社会人野球の企業チームである。
運営母体は、生命保険会社の日本生命保険。獲得した全国タイトルが、社会人野球チームの中でENEOS・東芝・住友金属に次ぐ史上第4位の計8回(都市対抗野球4回・日本選手権3回・産業対抗1回)を誇り、都市対抗野球には歴代チーム中最多の62回、日本選手権もパナソニックに次ぐ38回の出場を誇る。また、プロ野球選手や日本代表選手を多数輩出している西日本を代表する名門チームである。 歴史は古く、戦前の1929年に日本生命保険の硬式野球部として創部した。近年では社業に就く上での資格取得の関係上、選手の採用は原則として学卒であることを条件としているが、プロ入り前提で高卒の選手が加入することもある[1]。 1961年4月20日、当チーム所属の柳川福三がNPBの中日ドラゴンズと契約し、プロ・アマ断絶のきっかけとなる柳川事件が起きた[2]。 1985年の都市対抗野球と、1990年の日本選手権でそれぞれ初優勝を達成した。 2015年、都市対抗野球で4度目の優勝を日本選手権で3度目の優勝を果たし、社会人野球史上3チーム目となる同一年での2大大会制覇となった[3][4]。 2016年シーズン限りでこれまで練習場として使用していた大阪府吹田市にある日本生命千里山グラウンドが閉鎖され、2017年シーズンからは練習場を大阪府貝塚市のユニチカ貝塚工場跡地の一画に新設した日本生命貝塚グラウンドへ移して活動している[5][6]。 2018年は都市対抗野球で予選敗退に終わり、連続出場が15で止まった。 太字は現役選手(2023年シーズン現在)
概要
設立・沿革
1929年 - 創部。
1949年 - 都市対抗野球に初出場(1回戦敗退)。
1961年 - 柳川事件が勃発。
1962年 - 日本産業対抗野球大会で初優勝。
1974年 - 日本選手権に初出場(第1回大会、初戦敗退)。
1985年 - 都市対抗野球で初優勝。
1990年 - 日本選手権で初優勝。
1992年 - 都市対抗野球で2度目の優勝。
1997年 - 都市対抗野球で3度目の優勝。
2002年 - 日本選手権で2度目の優勝。
2015年 - 都市対抗野球で4度目の優勝。日本選手権で3度目の優勝。 ※同一年での二冠を達成
主要大会の出場歴・最高成績
都市対抗野球大会:出場62回、優勝4回(1985、1992、1997、2015年)
社会人野球日本選手権大会:出場39回、優勝3回(1990、2002、2015年)、準優勝4回(1998、2006、2017年、2019年)
日本産業対抗野球大会:出場18回、優勝1回(1962年)
JABA東京スポニチ大会:優勝6回(1951、1955、1959、1968、1971、1997年)
JABAベーブルース杯争奪大会:優勝1回(1965年)
JABA東北大会:優勝1回(2015年)
JABA日立市長杯選抜野球大会:優勝1回(2022年)
JABA京都大会:優勝11回(1950、1962、1991、1992、1993、1996、2003、2006、2013、2015、2019年)
JABA岡山大会:優勝8回(1959、1960、1961、1972、1984、1986、2003、2004年)
JABA四国大会:優勝3回(1978、1993、1994年)
JABA高砂市長杯争奪大会:優勝1回(2002年)
JABA広島大会:優勝1回(2002年)
主な出身プロ野球選手
香川正(外野手) - 1954年に近鉄パールスに入団
大石雅昭(外野手) - 1955年に近鉄パールスに入団
大津淳(外野手) - 1956年に大阪タイガースに入団
伊藤芳明(投手) - 1959年に読売ジャイアンツに入団
柳川福三(外野手) - 1961年に中日ドラゴンズに入団
中司得三(外野手) - 1978年ドラフト外で読売ジャイアンツに入団
中本茂樹(投手) - 1982年ドラフト外でヤクルトスワローズに入団
田島俊雄(投手) - 1986年ドラフト1位で南海ホークスに入団