日本海軍空挺部隊
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日本海軍落下傘兵, 1940?1945

日本海軍空挺部隊(にほんかいぐんくうていぶたい)項目では、大日本帝国海軍空挺作戦用に編成した海軍特別陸戦隊について解説する。太平洋戦争大東亜戦争)初期のメナド攻略戦にて、パラシュート降下にて実戦使用された。
歴史
第一〇〇一実験

日本海軍は、支那事変までに陸戦隊を実戦運用してきたが、空挺作戦については特に研究も行っていなかった。しかし、第二次世界大戦初期のドイツ軍空挺部隊の活躍に刺激された軍令部は、海軍独自の空挺部隊の研究に着手することにした。1940年(昭和15年)11月下旬に発せられた海軍大臣訓令により、「第一〇〇一実験」の秘匿名を付された海軍空挺部隊の基礎研究が指示された。

「第一〇〇一実験」は、横須賀海軍航空隊司令委員長に、航空技術廠砲術学校などから集まった委員会が運営した。実験要員としては、山辺雅男中尉准士官以下総計26名が横須賀空に配員された。当初はダミー人形を使った落下傘試験にはじまり、民間人に変装しての読売遊園落下傘塔体験、ブランコによる飛び出し訓練などを経て、1941年(昭和16年)1月に最初の有人降下実験に成功した[1]

同年3月、第2期研究員66名が入隊して次第に研究を拡大した。安全な降下法の目途がついたため、武器の選定や輸送方法などの研究に進んだ。同年5月下旬に、一応研究が完成したとして「第一〇〇一実験」は終了される。この間、鹿島爆撃場(現神栖市)での12名連続降下実験を行った際に、落下傘索が装着ベルトに絡まって開傘せず、最初の殉職者を出している。
部隊編成

1941年8月中旬、軍令部は太平洋戦争開戦に備えて、降下技能者1,500名の2か月以内の養成を発令した。館山砲術学校に移っていた「第一〇〇一実験」の元研究員75名を基幹に訓練を進めることになり、9月下旬に館山で最初の空挺部隊である横須賀鎮守府第一特別陸戦隊(横一特)が編成された。各地の鎮守府から集められた1,500名は、館山海軍航空隊内に設置された輸送機隊の支援を受けて、降下訓練を始めた。訓練用の落下傘が当初はわずか150個しかなく、また海に近いため降下地点が狭いなどの悪条件を抱えながらも、11月中旬にはなんとか3回ずつ程度の降下体験を終えた。この訓練中に数名の殉職者を出した。なお、医務科や主計科員は降下訓練は受けなかった。

同年11月16日、霞ヶ浦飛行場を標的として、輸送機15機による集団降下演習を実施した。落下傘降下に続いて、ようやく整備されつつあった武器を使って陸戦演習も行い、強行着陸による速射砲などの展開も実験した。この演習は軍令部総長永野修身大将が観閲し、陸軍参謀本部からも見学者が訪れている[2]

同月20日には横一特を分割して、2個目の空挺部隊である横須賀鎮守府第三特別陸戦隊(横三特)が編成された。訓練協力してきた館山空の輸送機隊も、実戦用輸送機部隊として第一航空隊に編入され、第一〇〇一部隊と称するようになった[注 1]。これらの部隊は12月3日までに台湾へと進出した。なお、落下傘兵は降下訓練を行うのが精一杯で、陸戦訓練はほとんど行われていなかった。台湾への進出後に、初めてまともな陸戦訓練を受ける有様であった[2]
実戦日本軍のオランダ領東インドへの侵攻経過。メナド及びクーパンへの降下作戦も落下傘のマークとともに記載されている。

こうして編成された海軍空挺部隊の任務は、敵飛行場の急速な占領を行い、以後の侵攻作戦の拠点を確保することに定められた。太平洋戦争が始まると、まず1942年(昭和17年)1月11日、横一特がセレベス島北端のメナド(マナド)攻略作戦において落下傘降下を実施し、ランゴアン飛行場占領に成功した。ついでティモール(チモール)島攻略作戦において、横三特がクーパン飛行場を狙った降下作戦を実行したが、地上戦闘に手間取り大きな成果を得ることはできなかった。

メナド降下作戦は陸軍に先駆けた日本最初の空挺作戦であったが、陸軍空挺部隊が予定するパレンバン空挺作戦の企図秘匿のため、その戦果はすぐには公表されず、1ヶ月以上後の大本営発表でパレンバン空挺作戦の成功とほぼ同時の発表となった[注 2]。なお、飛行場のみならず、東アジア屈指の産油量を誇る油田地帯・製油所という、南方作戦における日本軍の最重要戦略目標を僅かな損害で攻略した陸軍空挺部隊(第一挺進団)の功は海軍の功よりはるかに大きく、目立つ結果となり、陸軍への対抗意識が根強い海軍関係者の一部では不満が生じた。また、日本軍落下傘部隊を謳った軍歌として大ヒットした『空の神兵』は、後に陸軍空挺部隊を描いた同名の映画空の神兵』の主題歌になり、後述の通り陸軍空挺部隊は大戦後期にも数度の空挺作戦を行っているため、知名度や戦功の点からみて海軍空挺部隊の働きは陸軍空挺部隊より劣るものとなってしまった。もっとも、海軍空挺部隊についても報道員が撮影した降下映像をもとにした短編ニュース映画や、大戦末期になるもののアニメ映画桃太郎 海の神兵』が公開されたこともあり、国民にある程度は存在を知られることになる。

南方作戦後、陸軍は数々の作戦を計画し後には事実上の空挺師団である第一挺進集団を編成、大戦後期にわたり空挺作戦(高千穂空挺隊義烈空挺隊)を実施したのに対し、海軍空挺部隊が作戦を行う機会は無かった。アッツ島の戦いにおいて横一特を救援に送ることが検討されたが、中止となった。海軍空挺部隊は通常の陸戦隊と同じように太平洋上の島嶼の防備にあてられ、横一特はサイパンの戦いで全滅した。なお、落下傘降下ではないが、マキン奇襲事件の際に、通常の陸戦隊1個小隊飛行艇で空輸され緊急展開したことはある[5]

このほか、大戦末期にはマリアナ諸島へ輸送機を強行着陸させて陸戦隊を降ろし、本土空襲を阻止する剣作戦が立案された。しかし、輸送機が空襲で消耗したため延期され、実行直前に敗戦を迎えた。

なお、戦後に創設された自衛隊陸上自衛隊)の空挺部隊である第1空挺団は、旧陸軍の衣笠駿雄少佐(初代団長)を長とし、また旧陸軍空挺部隊の元隊員ら20名によって創設された陸軍色の濃い組織であり、旧海軍空挺部隊との関連性は無い。
部隊一覧
横須賀鎮守府第一特別陸戦隊

横須賀鎮守府第一特別陸戦隊(横一特)は、日本海軍落下傘部隊の中心となった部隊である。1941年9月20日に編成され、司令には堀内豊秋中佐が着任した。同名の部隊が支那事変で活躍しているが、落下傘部隊として新たな人員から編成されたもので、全く異なった部隊となっている。降下訓練後、同年11月20日に半数の人員を分割し、新設の横須賀第三特別陸戦隊の要員に充てた。これにより、定員849名(うち落下傘兵750名)となった[6]。編制は3個中隊砲隊などを加えた1個大隊である。

太平洋戦争が始まると、1942年1月にメナド降下作戦を成功させた。横一特の2波合計408名は、ダバオから発進した第1航空隊の九六式陸上輸送機延べ45機により、落下傘降下した。速射砲隊と医務隊は、報道班とともに九七式飛行艇2機で付近の湖に空輸された[7]。降下部隊はオランダ軍を撃破してランゴアン飛行場の制圧に成功し、海岸から上陸した佐世保連合特別陸戦隊と協力してメナドを占領した。なおこの際、メナド攻略に参加していた水上機母艦・瑞穂から発進した零式水上観測機の誤射により、メナドに向かっていた第1次降下部隊の九六式陸上輸送機27機の内1機が撃墜されて、降下員12名含む搭乗者全員が戦死する事故が発生している。メナド降下作戦での損害は、戦死32名(内12名は既述の友軍機誤射)、戦傷者32名だった[8]


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