日本海東縁変動帯(にほんかいとうえんへんどうたい)とは、文字通り日本海の(日本列島より)東縁を南北に延びる、幅数百kmの地質学的な歪みの集中帯である。日本海東縁ひずみ集中帯とも呼ばれる[1][2]。
ユーラシア大陸 - 樺太間の間宮海峡から北海道積丹半島沖を通過し、男鹿半島沖から新潟沖に繋がる。北方への延長線は、東シベリアから北極海底の超低速で拡大するガッケル海嶺を経て大西洋中央海嶺に繋がるが、大西洋中央海嶺は拡張方向の運動で、シベリアの北側にあるラプテフ海のファデエフスキイ島(Ostrov Faddeyevskiy)付近を回転軸として日本方付近は東西方向からの圧縮運動となっている。
プレートテクトニクス的観点衝突境界の様式例赤:トランスフォーム断層
茶:断裂帯
プレートテクトニクス的に捉えれば、ユーラシアプレート(アムールプレート)と北アメリカプレート(オホーツクプレート)が衝突している境界で、日本海側(ユーラシアプレート)が日本列島(北米プレート)の下に潜り込む運動をしている場所。現時点では潜り込みがまだ浅く「衝突」の域を出ていないが、数百万年後の未来には新たな海溝を生じて、海底地形としてはっきり表れると考えられている。
この部分をプレート境界とする根拠は、新潟県沖から北海道西方沖までマグニチュード7規模の地震が線上に発生していたことによるもので[3]、特に秋田県沖を震源とする1983年の日本海中部地震をきっかけとして「日本海東縁新生プレート境界説」[注釈 1]が発表されたことで注目された。しかし、プレート境界の様式は不明で「衝突境界」とする説と「トランスフォーム境界」とする説がある。1995年のサハリン北部のネフチェゴルスク付近の地震 (M 7.6) 以降は、サハリン - 日本海東縁変動帯とも呼ぶことがある[4]。
この変動帯にほぼ沿う形で地震発生層の浅い領域が存在していて、北は積丹半島付近、渡島半島、東北脊梁山地を通り福島県西部付近で南西方向に向きを変え長野・富山県境から琵琶湖北に抜け、島根県東部まで続いている[5]。日本海の海底には日本海形成時に活動した断層群が残されており、新第三紀中新世後期までは引っ張り方向の応力場で正断層が発達した。鮮新世以降には応力場が反転し圧縮方向に変わった後は、逆断層として活動をしている[6]。 日本列島の陸上部のプレート境界線は明らかになっていないが、新潟神戸構造帯(NKTL)と繋がるとする説と、佐渡島 - 能登半島間を通り糸魚川静岡構造線(ISTL)へと繋がるとする説がある。現在は後者の「佐渡島?能登半島間」説が有力であるが、新潟?神戸構造帯を延長方向として捉えると、三条地震、善光寺地震、新潟県中越地震、新潟県中越沖地震、長野県北部地震の発生が見られる。また1741年に北海道の渡島半島の熊石から松前にかけてを襲った、謎の大津波の原因となったとされる渡島大島[7]や奥尻海嶺、佐渡海嶺 約100年間隔で活動が活発な時期と比較的平穏な時期を繰り返しているが、20世紀後半から21世紀初頭にかけては活発な時期に当たっている。また、サハリン東岸から北海道西方沖をへて新潟付近の地帯では、過去200年間でM6.5を越える規模の地震を10回程度発生させている。 堆積物調査などにより活動間隔が判明している主な場所、 以下は、過去約300年間に発生した地震のうちM 6.5 以上の主な地震を抽出。
地質的特徴
境界の位置
活動状況
活動間隔
サハリンの活断層:約2000年
利尻トラフ付近でのタービダイト(海底堆積物)調査によれば、放射性炭素年代測定で約2300年前と5500年前と推定できる堆積物が見つかった[8]。
奥尻海嶺:約1000年
秋田県沖:約1000年
変動帯と周辺での地震
1762年 佐渡沖 (M7.0) - 津波により26棟が被害[9]。
1792年 北海道後志沖
1793年 寛政西津軽地震 (M 6.9からM 7.1)
1802年 佐渡小木地震 (M 6.5からM 7.0)
1804年 象潟地震 (M 7.0)
1828年 三条地震 (M 6.9)