株式会社ニッスイ
Nissui Corporation
本社が入居する西新橋スクエア
種類株式会社
機関設計監査役会設置会社[1]
市場情報東証プライム 1332
株式会社ニッスイ(Nissui Corporation)は、東京都港区に本社を持つ日本の大手水産・食品会社。2022年(令和4年)12月1日に日本水産株式会社(にっぽんすいさん)から商号変更した。
春光グループの春光会、芙蓉グループの芙蓉懇談会の会員企業である[4][5]。日経平均株価の構成銘柄の一つ[6]。 水産事業、加工事業、物流事業、医薬品事業や船舶の建造・修繕および運航とプラント機材他の販売を行っている。海外展開を積極的に進めた結果、海外売上高比率は2023年時点で約40%に達し、食品事業の家庭用・業務用水産フライの売上高では世界第1位を誇る[7]。 1990年代前半まで自社で遠洋漁業を行っていたが撤退し、事業領域を整理した。売上規模では同業2社が経営統合したマルハニチロに次ぐものの、ファインケミカル事業による高純度エイコサペンタエン酸の医薬品向け原料供給により、水産業のなかでは収益性が高い傾向にある。機能性表示食品事業にも展開[8]。 旧社名「日本水産」時代は、「日」の文字を的でイメージした社章で著名だったが、社名変更に際しては「ニッスイと生活者の双方向コミュニケーションを象徴する」左右2つの波を結合し、また海の象徴である波を通して、水産資源というニッスイの原点(オリジン)の思いを込め、曲線による親しみと直線による意志の強さを表現し、それを斜めに傾けたロゴタイプで挑戦心・探求心を表した新しいコーポレートアイデンティティー(CI)[9]・[10]を新たに策定した。 ブランドスローガンは「まだ見ぬ、食の力を。」。
概要
沿革福岡支社北九州営業所・ニッスイマリン工業本社・ニッスイパイオニア館が入居する「揺籃の地」ニッスイ戸畑ビル(旧共同漁業ビル)安城工場(愛知県安城市)
1911年5月 - 久原財閥総帥・久原房之助の兄である田村市郎が「田村汽船漁業部」を山口県下関に創立、國司浩助らとトロール漁業経営を始める(日本水産の創業)[11]。
1917年
6月3日 - 田村汽船漁業部が株式会社山神組からの増資を受け、日本水産株式会社に改称[12]。
7月10日 - 日本水産の社章を商標登録[12]。
1919年9月27日 - 「田村汽船漁業部」が組織変更し「共同漁業株式会社」に改称、松崎壽三が社長として就任[13]。
1920年
2月 - 下関に早鞆水産研究会(ニッスイ中央研究所の源流)を創立[13]。
8月23日 - 株式会社中央水産販売所設立[14]。
1926年11月12日 - 共同漁業が日本水産及び北洋水産を合併。中央水産販売所が日本水産株式会社に改称[15]。
1929年12月15日 - 共同漁業が漁業根拠地を下関から戸畑に移転[16]。
1934年
5月7日 - 日本捕鯨株式会社(のちのニッスイ捕鯨部門)が設立[17]。同年南氷洋捕鯨に初出漁。
7月31日 - 日産が共同漁業、東洋捕鯨、大日本製氷を合併し、豊洋漁業が共同漁業に改名[17]。
共同漁業が本社を神戸市から東京市麹町区丸の内の丸ビルに移転。
1936年9月16日 - 共同漁業が日本捕鯨及び日本の蟹工船全てを保有していた日本合同工船株式会社を合併[18]。
1937年
3月31日 - 共同漁業が日本水産株式会社に改称[18]。
8月17日 - 本社を東京市芝区田村町の日産館に移転[18]。
1942年12月24日 - 水産統制令に基づき、帝国水産統制株式会社(現・ニチレイ)を設立、冷蔵・販売部門を譲渡[19]。
1943年3月31日 - 水産統制令に基づき、漁労部門を中心に日本海洋漁業統制株式会社を設立[19]。
1945年12月1日 - 水産統制令廃止に伴い、社名を日本海洋漁業統制から日本水産株式会社に復帰[20]。