この項目では、日本の青年組織について説明しています。在日朝鮮人によって結成された組織については「在日朝鮮民主青年同盟」をご覧ください。
日本民主青年同盟民主青年会館(東京都渋谷区千駄ヶ谷)
略称民青同盟、民青、民青同
標語祖国と青年の解放[1]
前身日本共産青年同盟[注 1][2]
設立1923年4月5日
種類青年組織[1]
法的地位任意団体
本部東京都渋谷区
千駄ヶ谷4丁目20番2号
会員数6,460名
中央委員会委員長西川龍平
主要機関中央委員会、
中央常任委員会、
都道府県委員会、
地区委員会
関連組織日本共産党、
全日本学生自治会総連合、
平和・民主・革新の日本をめざす全国の会
ウェブサイト ⇒日本民主青年同盟
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日本民主青年同盟(にほんみんしゅせいねんどうめい、英語: Democratic Youth League of Japan)は、日本の学生団体[1]。略称は、民青同盟(みんせいどうめい)、民青(みんせい)、DYLJ[3]。日本共産党を相談相手として、日米安全保障条約反対などの平和運動、反原子力発電運動などを行う政治団体である。
全日本学生自治会総連合(全学連)の組織的な母体にもなった[2]。 日本民主青年同盟の規約の第一条(名称、基本的性格)には以下が記載されている。組織の名称は、日本民主青年同盟(略称「民青」「民青同盟」)とする。 民青は、青年の切実な要求にこたえ、生活の向上、平和、独立、民主主義、社会進歩をめざす自主的な青年組織である。 科学的社会主義と日本共産党綱領を学び、自然や社会、文化について広く学んで人間性をはぐくみ、社会の担い手として成長することをめざす。日本共産党を相談相手に、援助を受けて活動する。 ? 日本民主青年同盟の規約 (2011年11月20日改定)[3] 主な活動は、日本共産党の活動と連携した、日米安保条約反対などの平和運動、反原発運動、学費値上げ反対運動、各種署名活動やボランティア活動、学習会、同世代の交流と連帯などである、としている[3]。2019年以降はコロナショックにより困窮する学生・若年者が増加したことを受け、各班がフードバンク事業を行っている[4][5]。班によってはtwitterアカウントでインカレサークルを名乗っているところもあり、また大学当局に公式サークルとして認可を受けている班も存在する[6]。 ロシア革命の影響を受けていた大正時代(1923年4月5日)に日本共産青年同盟(共青)が設立された。日本共産青年同盟が民青の前身である[3]。共青は、天皇を中心とした戦前の日本で、「満18歳以上の男女の選挙権、被選挙権」、「同一労働同一賃金」、「天皇制打倒」、侵略戦争と軍国主義反対を掲げ、弾圧された[7]。川合義虎、高島満兎[8]、飯島喜美[9]など捕えられて殺傷されたり、獄死した同盟員もいた。関鑑子監修 日本青年共産同盟中央文化部編「青年歌集」表紙(東京 1948年)日本青年共産同盟中央演劇学校・中央音楽学院 開校宣伝ポスター(東京 1948年) 戦後は日本青年共産同盟(青共)として発足。その後、日本共産党の所感派と国際派の分裂と対立(50年問題)に伴い、「暴力的潮流があった」と自己批判し、日本民主青年団(民青団)と改称し、一旦科学的社会主義の放棄を行なった。しかし、他の交流サークルとの違いが見いだせなくなり、再び自己批判し、日本民主青年同盟への改称と共に科学的社会主義の路線が復活。1960年の第6回全国大会で民青は「青年同盟の呼びかけ」と「規約」を採択し、現在の組織の性格を確立した[10]。「基本的任務と性格」は「日本共産党のみちびきをうけ科学的社会主義と党綱領を学ぶ」[11][12][13]とされ、党の指導を受ける事が明確化されたが、この表現は1980年代以降に「日本共産党に相談する」と変更された。 旧ソビエト連邦共産党や中国共産党などと日本共産党の対立が激化した際には、「日本の運動に干渉を加えてきた時期があったが、干渉をはねのけた」としている[3]。善隣学生会館事件における「民青のゲバルト部隊」とされる写真 1969年を頂点とした学生運動の昂揚期には、当時の学生の間で大きな力を持っていた全共闘などの反代々木派学生や新左翼諸セクトを「トロツキスト」と批判し、激しく対立した。黄色いヘルメットと「民主化棒」と称するゲバルト棒で武装した民青の防衛隊は「あかつき行動隊」と呼ばれ、数千人規模の全共闘を数百人の部隊で圧倒することもあった[14]。1967年の善隣学生会館事件では中国共産党政府の主張をする在日華僑学生やその支援者などとの間に流血事件を起こしている。一方で、民社党系の「若い根っこの会」のような交流サークルの一面も併せ持ち、交流会や旅行などの企画を行なっていた。また、関連団体の中央合唱団や日本のうたごえ実行委員会(現:日本のうたごえ全国協議会)などを通じてうたごえ運動を主導した。その事から、新左翼からは「歌って踊って日共民青」と揶揄される事もあった。 同盟員数は6,460人(2023年時点)。最盛期の1970年には同盟員数は約20万人を数えた(名古屋大学生総数4,000人中1,000人、東北大8,000人中1,000人、岩手大3,000人中1,000人、京大、立命四桁、東大600、早大、法政、中央数百)が、30回大会(2002年11月)において「2万2,000の峰を突破」との表現で公表したのを最後に、同盟員数は明らかにしていなかった[15]が、47回大会(2023年11月)において、システムで集計した現勢は6,460人だったことを明らかにした[16]。
概要
沿革