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流鏑馬(武田流)弓術(日置流)居合術(無雙神傳英信流)杖術(神道夢想流)
古武道(こぶどう)とは、"明治維新以前に成立した武芸(武士を中心として発展した技芸)のうち、技術化・体系化されたもの"、すなわち、室町時代から剣術、柔術、槍術、弓術、砲術などがそれぞれ様々な流派として技術化・体系化されていったため、一部(家伝や言い伝えを含む)古代・中世前期発祥とされる流派を除き、概ね室町時代以降の武芸を指す[1]。明治時代以降、武道という総称が確立し、現代武道と明確に区別する場合に古武道と呼ばれるようになった。日本の伝統的な、徒手もしくは鈍器や刃物、火器などの武具の使用法や、水泳、乗馬など戦闘に関わる技術を体系化したものの総称。日本の伝統芸能の一つにも数えられる。日本武術、古流武術、古武術もほぼ同義。武芸、武術、兵法などの類義語もある。対義語は現代武道。
現代武道が体育的見地からの心身の鍛錬を目的とし、スポーツ系統の競技試合を重視して技術の体系を構築しているのに対し(例:柔道、剣道)、古武道は基本的に試合での勝敗を目的とせず(流派によっては他流試合を禁じていた)、合戦・決闘・護身や、戦闘で使命を果たすための心身鍛錬が本来の目的とされていた。そのため、危険であるとして現代武道から除かれた技法や各種の隠し武器、薬方、呪術が流派によっては含まれている場合がある。
相撲は、現代武道の一つには数えられているものの、江戸時代以前の相撲は古武道に含まれるかというと、決して明瞭ではない。ただし武家相撲は、相撲の中でも最も古武道の定義に重なった形態と言える。
琉球古武術や空手は、古武道として分類されたり古武道団体に所属していることもあるが、これらは中国武術からの影響が大きい琉球王国独自の武術であり、本土のそれとは異質な技術体系を有しているため、本項で定義する古武道とは別個として考える。 古武道は、戦闘技術という大義名分のもと、一種の教養・学問・芸能として、古来からその価値が認められており、武家文化の担い手として重要な役割を果たしてきた。神道、仏教(禅宗・密教)、儒教、道教などの宗教観が武技の根幹である生体力学と融合し、武士の生活規範である「武士道」の中核を支えた。 理想を古典的な形(型)に求めそれを重視し保守する姿勢を「雅」とし、古典的な形に囚われず新たな形を創造する姿勢を「俗」とするならば、古武道は、古典的文芸や能楽の影響を受けて、戦闘という極端な「俗」を脱して「雅」の性格が付与されており、「道」としての文化的価値を見出している[2]。 入門時の血判や起請文などに示されるように、古武道は厳格で格式高い閉鎖的・排他的な様相を呈することが多い。しかしその一方では、単に武士が藩校などで学ぶ義務教育の一環として、あるいは農民や町人が余暇に嗜むレクリエーションとして(ただし禁令が出されたこともある)といった、現代でいう学校体育や趣味に近いような敷居の低い一面も認められた。 武士の表芸は、遠戦術の弓術から、白兵戦術の薙刀術、槍術、剣術へと時代ごとに変化した。古武道の定義である室町時代以降の武芸では、兵法三大源流をはじめとする剣術が表芸となっていった。 弥生時代の鎧、剣、矛、鏃、弓、埴輪などの出土品や、『古事記』、『日本書紀』などの日本神話に剣、矛、刀、弓など武器の記述があることから、なんらかの武技は存在していたものと思われるが詳細は不明である。古墳時代の埴輪 挂甲武人は甲冑を身につけ、弓と太刀を装備している。また太刀は左腰に下げている。和人側の記述から蝦夷は狩猟で培った騎射を主体に、蕨手刀のような刀剣も使用しており、取り扱うための武技もあったと推察されるが詳細は不明である。騎射については俘囚を通して和人に伝わると、武士により戦闘技術として洗練されていったとされる。 『日本書紀』では当麻蹴速と?力(すまひ)で勝負した野見宿禰が蹴り技の応酬で戦い、最後は倒れた蹴速が宿禰に腰を踏み折られて死んだという記述があり、この時代の?力が相撲の起源とする説もある。これは現代の相撲(大相撲、アマチュア相撲)とはルールが異なるものである。『日本書紀』の天智天皇紀には、7年秋7月「于時近江國講武」すなわち近江国で武を講じたとある。 また『古事記』などの思想的、文化的な視点から、弓矢が威儀を示す行装として重い位置を占めていたと考えられ、その日本古代からの弓矢への威徳の思想と、中国の弓矢における「射をもって、君子の争いとなす。」という射礼思想礼から、朝廷行事としての「射礼」の儀が誕生した。その後の武家時代には弓矢を通じた礼の思想がうまれ、やがて日本固有の武家思想と結びついていくことになる[3]。 これまで日本を支配していた貴族に代わるように、武士が新たに台頭するようになる。合戦の主役は弓であると同時に中世全期を通した武士の象徴であったが、一方で時代が下るごとに白兵戦の比率が増えていき、その表武器も太刀(野太刀)・薙刀、さらに槍と変化していった[4]。 また、合戦や抗争に依らずとも日常的に殺し合いが発生したといわれ、武士や貴族を始めとするあらゆる人々は些細なきっかけで激高し、武器を手に取って友人や部下を含めた人々を殺傷した[5]。 『和名類聚抄』には『古布志宇知(こぶしうち)』という武術名が見える。 平安時代では一騎討ちが基本であり、騎射により矢を打ち合う「矢戦(やいくさ)」から始まり、矢が尽きると接近して太刀や薙刀などの打物で戦う接近しての馬上戦に移行、最後は相手の首を取るためは馬を下りて戦う「歩戦(かちいくさ)」で勝敗を決した。このためあらゆる間合いで戦う技能が必要となった。 武士の道(武芸)は弓術と馬術を基本とする「弓馬の道」とされ、騎射三物のような鍛錬法も編み出された。この時代でも合戦は騎射で始まるが、元寇を描いた絵では騎兵を密集させ集団で突撃する様子もあり、集団戦も考慮されるようになったと考えられている。 曾我兄弟の仇討ちで有名な『曽我物語』などでは、現代の相撲と異なる武芸としての相撲が武士により行われたことが記述されている。
砲術(森重流)
剣術(天真正伝香取神道流)
組討(四天流)
概要
歴史
古代『埴輪 挂甲武人』(古墳時代)
中世「天下五剣」のうちの一振り『童子切』(平安時代)
平安時代
鎌倉時代
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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