日本橋呉服橋
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この項目では、東京都中央区の八重洲に加えて、千代田区丸の内に属する皇居前の地区について説明しています。北九州市にある八重洲町については「小倉南区」をご覧ください。
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八重洲
町丁
東京駅八重洲口から見た八重洲通り
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日本
都道府県 東京都
特別区 中央区
地域日本橋地域(一丁目)
京橋地域(二丁目)
人口(2019年令和元年)9月1日現在)[1]
 ? 合計73人
等時帯UTC+9 (日本標準時)
郵便番号103-0028(一丁目)[2]
104-0028(二丁目)[3]
市外局番03[4]
ナンバープレート品川

八重洲(やえす)は、東京都中央区町名。隣接する千代田区丸の内大手町有楽町、中央区日本橋京橋とともに、日本最大のオフィス街を構成している。広義では東京駅の東側一帯を指し、駅西側一帯の丸の内と対比される[注釈 1]。八重洲一丁目と八重洲二丁目が設置されている。郵便番号は一丁目が103-0028[2]、二丁目が104-0028[3]

「八重洲」の地名は、元来、江戸時代に江戸城の和田倉門付近(内堀沿い)を指す名称で、河岸があった。1600年に日本に漂着したオランダ人航海者ヤン・ヨーステンが拝領した屋敷の地に由来するとの説がある。

明治時代に外濠に八重洲橋が架けられ、昭和初期に東京駅東口を「八重洲口」、駅前の幹線道路を「八重洲通り」と呼んだことから、東京駅東側のみを「八重洲」と認識するように変わった。

行政地名として中央区に「八重洲」が設置されたのは第二次世界大戦後の1954年である。本項歴史節においては現在の八重洲地域に加え、かつて「八重洲」と呼ばれた地域についても記述する。
地理東京駅八重洲口の外観(2014年撮影)。東京駅舎はすべて千代田区丸の内に属する。

行政地名の八重洲は、中央区の西部に位置する、南北方向に長い長方形状の区画である。西はおおむね外堀通り付近(旧江戸城外濠)を境界として千代田区丸の内・大手町と隣接する(後述)。北は日本橋川を隔てて日本橋本石町、北東角(西河岸橋上の一点)で日本橋室町と接する。西河岸橋から八重洲仲通り - 柳通りと名称の変わる一連の道路が東の境界となっており、日本橋・京橋と接する。また、南では東京高速道路(旧京橋川)付近を境界として銀座と隣接する。一丁目と二丁目があり、ほぼ中央を走る八重洲通りを挟んで北側が一丁目、南側が二丁目である。

中央区(八重洲)と千代田区(丸の内・大手町)の境界線は、外堀通りの線形とは一致しておらず、外堀通りの西側を通る。この境界線はかつて外濠の中央に引かれていた区界を引き継ぐものであるが、外濠埋め立て後に駅の拡張や直線的な道路の整備が行われたためである。外堀通り以西で中央区八重洲に属する場所について、住居表示による街区表示では八重洲一丁目10番・11番街区が設定されているが、これらは実際の住所としては使われていない。

東京駅では西側の出口(皇居方面)を「丸の内口」、東側の出口(日本橋方面)を「八重洲口」と称することから、駅西側一帯が「丸の内」、東側一帯が「八重洲」と通称されている。ただし、行政上の千代田区丸の内と中央区八重洲の境界は、東京駅八重洲口駅前よりもやや東にあるため、東京駅の駅舎・プラットフォームなどの施設はもとより、八重洲口駅前に位置するグラントウキョウ丸の内トラストシティなどのビル群も千代田区丸の内一丁目に所在する。また上述のように、外堀通りのやや西側に区界が走っているために、鉄鋼ビルディングは区界をまたいで建てられている。

八重洲は中央区では唯一、旧日本橋区と旧京橋区にまたがる町名であり、一丁目が旧日本橋区、二丁目が旧京橋区である。一丁目と二丁目で郵便番号が異なっているのはその名残であり(一丁目は日本橋郵便局、二丁目は晴海郵便局がそれぞれ集配を担当する)、税務署(一丁目は日本橋税務署、二丁目は京橋税務署の管轄)や消防署(一丁目は日本橋消防署、二丁目は京橋消防署の管轄)の管轄も分かれている。
由来八重洲通り(日本橋三丁目交差点)にあるヤン・ヨーステン記念碑(2007年撮影)。北側(和田倉門)から望む馬場先濠。江戸時代には馬場先濠外側の河岸が「八代洲(八重洲)河岸」と呼ばれていた。奥に見える明治生命館は江戸時代に八代洲河岸定火消屋敷があった場所で、明治期には八重洲町一丁目となった。
「八重洲」の語源

「八重洲」という地名は、1600年(慶長5年)に帆船「リーフデ号」の乗組員として日本に漂着したオランダ人、ヤン・ヨーステンの名に由来する[5][6][7]というのが一般的な説である。ヨーステンは徳川家康に召し抱えられて国際情勢顧問や通訳として活躍、また朱印船貿易家としても活動した[5]。その名は「ヤンヨウス」「ヤヨウス」などと呼ばれ「耶揚子[8]:123(耶楊子)」などの漢字があてられた。ヨーステンが家康から与えられた屋敷の周辺を「やよす河岸」などと呼ぶようになったのが、地名としての「八重洲」の起こりである[9]。これは、和田倉門から馬場先門周辺にかけての江戸城内濠(馬場先濠)沿い(現在の千代田区丸の内の日比谷通り沿い)である[注釈 2]

この八重洲河岸は、江戸湊に到着した船荷を、日本橋川道三堀と西へ遡り、内堀で荷上げした地点で、そこから江戸城へ物資を運び入れた。これらは江戸時代早期に整備された。

江戸時代には「八重洲河岸」「八代洲河岸」のほか、「耶揚子河岸」(『御府内備考』)、「八代曾河岸」(『江戸名所図会』『江戸砂子』)などさまざまな漢字表記があった。


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