日本書紀
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巻第十の写本(田中本)奈良国立博物館蔵。国宝。平安時代・9世紀現存最古写本。画像は現存第1紙(応神天皇紀)巻第一(神代巻上)の写本(吉田本、2巻のうち)京都国立博物館蔵。国宝。鎌倉時代・弘安9年(1286年)。卜部兼方奥書。画像は巻頭部分。巻第二十二の写本(岩崎本、2巻のうち)京都国立博物館蔵。国宝。平安時代・10 - 11世紀。画像は推古天皇元年正月紀(「法興寺の塔の刹柱に仏舎利を安置」の記事がみえる)

『日本書紀』(にほんしょき、やまとぶみ[1]、やまとふみ[2])は、奈良時代に成立した日本歴史書。『古事記』と並び伝存する最も古い史書の1つで、養老4年(720年)に完成したと伝わる[3]。日本に伝存する最古の正史[4]六国史の第一にあたる。神典の一つに挙げられる[5]神代から持統天皇の時代までを扱い、漢文編年体で記述されている。全30巻。系図1巻が付属したが失われた[6]
構成と特徴

『日本書紀』は全30巻、系図1巻(系図は現存しない)からなり、天地開闢から始まる神代から持統天皇代までを扱う編年体の歴史書である。神代を扱う1巻、2巻を除き、原則的に日本の歴代天皇の系譜・事績を記述している。ただし神功皇后など天皇とはされていない人物を1巻全体で取り扱う9巻や、事実上壬申の乱の記述に全体を費やす28巻などの例外も含む。全体は漢文で記されているが、万葉仮名を用いて128首の和歌が記載されており[注 1]、また特定の語意について訓注によって日本語和語)で読むことが指定されている箇所がある[7]。このような漢文中に現れる日本語的特徴、また日本語話者特有の発想による特殊な表現は現在では研究者によって和習(倭習)と呼ばれている[8][9]。『日本書紀』は伝統的に純漢文(正格漢文)の史書として扱われる場合が多いが、この和習を多々含むためその本文は変格漢文(和化漢文)としての性質を持つ[10]

太歳を用いた干支紀年、和歌の採録数の多さ、分註の多さなどは後世『日本書紀』に続いて編纂された日本の正史、いわゆる六国史の他の書籍と比較した場合際立って目立つ『日本書紀』の独特な特徴である[11]。また、『日本書紀』は単独の人物ではなく、複数の撰者・著者によって編纂されたと見られ、この結果として全体の構成は不統一なものとなっている。このため近代以降においては各巻の様々な特徴によってグループ分けを行う区分論が盛んに研究されている[12]。編纂にあたっては多様な原資料が参照されており、その中には日本(倭)の古記録の他、百済の系譜に連なる諸記録(百済三書、百済で実際に作成されたものであるかどうかは不明)、『漢書』『三国志』(「魏志」「呉志」)などの中国の史書が参照されている[13]。特に百済を中心に朝鮮諸国の事情、対外関係史について詳しく記述していることも独特の特徴である[14]

歴史記録としての『日本書紀』は、古代日本の歴史を明らかにする上で中核をなす重要な史料であり、東アジア史の視点においても高い価値を持つ史書である。ただし、あらゆる史料と同じように、歴史記録として『日本書紀』を利用する際には、厳格な史料批判を必要とする[注 2]。日本の学界では、『日本書紀』の史料批判の研究は分厚い積み重ねがあり、編纂にあたって語句の修正が行われていること[注 3]、編纂時の知識を古い時代に投影していること(例としてはを参照)などを始めとして、歴史記録・文学作品としての『日本書紀』の性質の多様な面が明らかにされているが、今もなお不明瞭な点も数多く残っており、熱心な研究が続けられている。
成立過程
歴史的背景

『日本書紀』は日本の現存最古の「正史」とされるが、その編纂までには日本における文字の使用と歴史的記録の登場の長い歴史があった。日本(倭)における歴史(即ち過去の出来事の記憶)についての記録として、まず言及されるのは「帝紀」(大王家/天皇家の系譜を中心とした記録)と「旧辞」(それ以外に伝わる昔の物語)である[17]。これらは津田左右吉が「継体欽明朝(6世紀半ば)の頃に成立した」と提唱して以来、様々な議論を経つつも、「元々は口承で伝えられていた伝承が6世紀にまとめられたもの」と一般的には考えられている[18][19][20]。さらに、文字に残された系譜情報を「史書」として見るならば、雄略朝(倭王武、ワカタケル大王、5世紀後半)にはその種のものが存在していたことが稲荷山鉄剣銘の存在によってわかる[21]

こうした歴史の記録には、書記官の存在が不可欠である。日本における文字の使用が渡来人によってもたらされたことも含めて、日本の修史事業は朝鮮半島・中国大陸の情勢と深く関係していた。日本では5世紀後半から6世紀にかけて、倭王権の下に史(フミヒト/フヒト)と呼ばれる書記官が登場する[22]。彼ら、フミヒトの多くは渡来人によって構成され、人的紐帯に基づいて倭王権に仕える形態からやがて欽明朝期の百済からのフミヒトの到来を経て制度化されて行った[23]。「帝紀」「旧辞」がまとめられていったとされる時期がこの欽明朝にあたると考えられ、同時期には朝鮮半島において百済と競合する新羅でも修史事業が進められていた[23]

「書かれた歴史」を編纂する修史事業の記録は推古朝に登場する。『日本書紀』によれば皇太子(聖徳太子、厩戸皇子)と嶋大臣(蘇我馬子)の監修で推古28年(620年)に『天皇記』『国記』『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』がまとめられた[24]。推古朝の修史事業はこれらの史書が現存しないことや聖徳太子という伝説的色彩の強い人物と関連した記録であること、具体的な経緯などの情報に乏しいことなどから実態が必ずしも明らかではない[25](これらはいわゆる「国史」に分類されるようなものではなかったとする津田左右吉の見解や、それに反論する坂本太郎の見解など[26])。しかし、推古朝において日本における修史事業が始められたことは当時の東アジアの潮流と軌を一にする[27]。上に述べた新羅の修史事業は真興王6年(545年)に「国史」をまとめたものであり、高句麗嬰陽王11年(600年)に『新集』と呼ばれる史書を撰述している[28][注 4]百済については修史事業の具体的な記録は残っていないが、『三国史記』の記述からは近肖古王(在位:346年-375年)代以来、何らかの「記録」があったことがうかがわれる[29]

これらの諸国の修史事業は4世紀以来、国家体制の構築や中華王朝との関係の変化の時期に行われており、外交上の必要性を重要な要因として行われたものであったと見られる。


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