日本建築史
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日本建築史(にほんけんちくし)では、日本における建築の歴史を記述する。

住宅について詳しくは日本の住宅、神社については神社建築を参照。
始まり

江戸時代から建築に対する有職故実的な研究は行われていたが、学問として成立するのは明治時代以降である[1]建築という用語自体、明治時代に造られたもの[2])。最初期の日本人建築家の辰野金吾はロンドン留学の際に「日本の建築にはどのような歴史があるか」と聞かれて何も答えられず、自国の建築史研究の必要を感じたという[1]。辰野の教え子、伊東忠太法隆寺が日本最古の建築であることを学問的に論じ、ここに日本建築史が第一歩を記した。[3]1900年(明治33年)、パリ万博に際して岡倉覚三(天心)を中心に『稿本日本帝国美術略史』(帝室博物館編)が刊行されたが[4]、建築の部門を任された伊東忠太は岡倉の美術史区分に大きな影響を受け、建築史の大枠を築いた[5]。当時、廃仏毀釈で大きな打撃を受けた寺院建築の保護が課題となっており、関野貞は奈良・京都の主な建築を調査し、それらの建築年代をまとめていった[6]。また、建築史学者と歴史家の間に法隆寺の建設年代に関する論争(法隆寺再建非再建論争)が起こったが[7]、現存する建物の様式論や、六国史などの文献研究はもとより、遺構調査など考古学の発掘成果も取り入れられるようになって、学問の深化が見られた[1]
扱う範囲

第2次世界大戦前までは古代・中世の社寺建築が研究の中心であったが、第二次世界大戦後は民家、江戸時代の社寺、明治以降の近代建築と次第に対象が広がっている(明治以降、旧植民地に日本人建築家の残した作品も対象になっている)。身近な街の古い建物にも関心が高まっており、例えば道端の祠のようなものでも、地域の歴史を物語るものとして評価されることがある。
位置付けと特色

日本建築は他アジア諸国と同じように中国建築の影響を受け、近代以降は西欧の影響を強く受けているが、日本の風土・文化に合わせた独自な展開も見られる。

柱・梁を基本構造とする日本建築と、煉瓦や石で壁を築いてゆく西洋建築は対照的な存在であり、20世紀のモダニズムの時代になると、近代建築の理念を先取りした点があるとして注目されるようになった。
原始?先史時代三内丸山遺跡:大型竪穴建物

現在の考古学・建築史では大きく床の位置(竪穴建物高床建物)、壁の有無(伏屋式、壁立式)、構造(掘立柱式、棟持柱式)によって分類される。現存する原始?先史時代の建築物は存在しないものの、建築部材が出土するようになり、遺構の発掘成果に基づいた復元建築物が存在している。

三内丸山遺跡

縄文時代の遺跡である三内丸山遺跡などからは高度な建築技術が存在していたことが窺える。竪穴建物の内部にも既に炉や穀物貯蔵用の穴などの設備が発掘されることが多く、定住の住居としての形式が見えるようになる。近年の発掘成果により、弥生時代に渡来人がもたらしたと信じられていた建築技術や様式が縄文時代から存在していたことが明らかになった。三内丸山遺跡:高床建物
床のある建築物高床建物.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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出典検索?: "日本建築史" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2021年10月)

かつては、床を持つ建築物が普及するのは稲作とともに弥生時代からだと考えられ、狩猟より農耕が一般的になるにつれ床を持つ住居が増えてきたと考えられていた。後に高床建築は、伊勢の神宮の神明造りや出雲大社の大社造り、住吉大社の住吉造りなどの神社建築様式に発展していく。20世紀の初頭のドイツの建築家ブルーノタウトは、伊勢の神宮を訪れたときに、その簡素さと究極の美しさにショックを受けて「雷に打たれたようだ」と表現した。吉野ヶ里遺跡 遠景

登呂遺跡

吉野ヶ里遺跡

弥生時代以後には、大規模な定住の状況が鮮明になっていると言える。

古墳時代に入ると農耕技術の進歩や共同体の拡大に伴い、集落そのものが巨大化するのに合わせて、建築物も大きくなる。各地の有力者が自らの住居を作る際、複数の居室を持つ大規模建築物が見られ、これらは豪族居館と呼ばれる。群馬県三ツ寺遺跡などでその遺構が発掘された。また、祭司等の宗教行事や貯蔵施設など、集落の中心となる建築物が判りやすくなった。
古代建築

法隆寺 西院伽藍

東大寺法華堂(三月堂)

平等院鳳凰堂

飛鳥様式


法隆寺西院伽藍、法起寺三重塔、法輪寺三重塔(焼失)

白鳳様式


薬師寺東塔

奈良時代


東大寺(法華堂、転害門など)、正倉院正倉、唐招提寺(金堂、講堂など)、法隆寺(夢殿など)

平安時代前期


室生寺金堂・五重塔、醍醐寺五重塔など

平安時代後期


阿弥陀堂 - 平等院鳳凰堂、中尊寺金色堂、白水阿弥陀堂、富貴寺大堂

寝殿造

飛鳥奈良時代は、中国の仏教建築の様式と技術を朝鮮半島を経由して取り入れた時期である。仏教公伝(538年)以降、日本でも寺院建築が建てられるようになった。記録では577年に仏工・造寺工が百済から招かれた。588年から609年にかけて蘇我氏が築いた飛鳥寺奈良県高市郡明日香村。法興寺、元興寺とも)や593年に聖徳太子創建とされる摂津国四天王寺(大阪府大阪市天王寺区。天王寺)が、日本最古の伽藍とされる(いずれも当初の建物は現存しない)。現存するものとしては法隆寺の西院伽藍、法起寺三重塔(ともに奈良県生駒郡斑鳩町)が最古のものである。法隆寺西院伽藍は、かつては聖徳太子の時代の建築と信じられていたが、近代における研究の進展の結果、670年の火災以後、7世紀末から8世紀初めの再建と考えられている。法起寺三重塔は8世紀初めの建築である。当時の伽藍配置や技法には、百済の寺院との共通性が指摘されている。一般に奈良時代の建物の基礎構法は伝統的な掘立式だった。平城宮の発掘調査によって検出された800棟の建物のうち、その大多数が掘立式の基礎だったことから、70年に及ぶ奈良時代の間に平均して4回の基礎の腐朽による建て替えが恒常的に行われたと考えられている[8]。遣隋使・遣唐使の時代になると、中国の建築様式の影響が強くなり、礎石の上に柱を立てる大陸風の基礎構法が導入されるようになる[8]

平安時代、国風文化の時代になると建築様式も日本化し、柱を細く、天井を低めにした穏やかな空間が好まれるようになった。平安時代以降には日本独自の形態として発展し、この建築様式を和様と呼ぶ。

10世紀中期以降、朝廷や寺社の行事や儀式は次第に夜を中心にして行われるようになっていった。それは同時に夜間における灯火の利用を増大させて度重なる火災の原因となり、結果的には大規模な造営が行われる一因となった。


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