日本女子野球連盟
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1999年に設立され、2014年の改組を経た「全日本女子野球連盟」とは異なります。

日本女子野球連盟(にほんじょしやきゅうれんめい)とは1950年から1951年の2年間にわたって女子によるプロ野球リーグを運営した団体である。その後、1952年からはノンプロ(社会人)野球団体に改組し1959年まで存続。その後日本女子野球協会(にほんじょしやきゅうきょうかい。2002年設立のものとは関係ない[1]。)が新設され、1971年まで存続した。本項では、日本女子野球協会を含めたノンプロ時代、前後の女子プロ・社会人野球の歴史についても記述する。
歴史
女子プロ野球誕生まで

1947年8月に文寿堂、ビクター横浜、オハイオ靴店、ビクター戸塚、日産自動車横浜女子商業学校のアマチュア6チームが参加して行われたオール横浜女子野球大会がある。この大会には2万人の観客が詰めかけ新聞、雑誌、ニュース映画の取材も殺到して日本中に報道された。この大会では文寿堂チームが優勝、オハイオ靴店が2位となった。

この大会の人気に刺激され、銀座[2]にあった『メリーゴールド』というダンスホールのダンサーたちが1948年に野球チームを結成し、上記のオハイオ靴店チームと試合を行った。その試合を見ていた小泉吾郎が女子による野球を興行として行うことを発案し、横浜女子商業の選手6名とメリーゴールドの選手を合流させて1948年7月に『東京ブルーバード』を結成した[3]。これが非公式ながら日本初の女子プロ野球チームと言われる。

東京ブルーバードは1948年から1949年にかけて地方遠征を行い、地元のアマチュア男性チームと試合を行った。当初の北海道遠征は興行的にも成功したものの1949年の中国・九州遠征は地元興行師との折り合いがつかないなどの理由で失敗に終わり、東京ブルーバードは解散してメリーゴールドの単独チームに戻った。

しかし小泉は引き続き女子プロ野球に情熱を燃やし、1949年5月に新たに選手を一般公募して『ロマンス・ブルーバード』を結成した。入団テストに際しては、「野球の腕前もさることながら、独身で容姿端麗という点も重視した」(小泉自身の言)。この時に入団した新人から後に「鉄腕麗人投手」と呼ばれる大島雅子投手、「女土井垣」の異名をとった富岡聡子捕手などの名選手が生まれた。チームの初代監督には元東京巨人軍の山本栄一郎を迎えたがチームの財政基盤は脆弱で、給料も満足に払えず地方出身の選手の多くが小泉の自宅に居候していた。

ロマンス・ブルーバードは1949年8月から北海道遠征を行った。この際にはメリーゴールドチームと帯同し同チームとの対抗試合ならびに地元チームとの親善試合を行ったが、選手不足もあり大島などは10日間連投という酷使をされた。この遠征も興行的には失敗で、小泉は多額の借金を抱えることになった。

当時は男子のプロ野球ですら1946年にようやくリーグ戦が再開されたばかりで、球団の多くが赤字を親会社に補填してもらってようやく運営している状態であった。そのため、女子プロ野球の前途を悲観する声も多かった。
日本女子野球連盟の成立

そのような状況の中でも、1950年に入ると次々と新しい女子プロ野球球団が誕生した。

レッドソックス』:1月に小泉の依頼を受けた関浦信一を代表として結成された。

『ホーマー』:2月に東京・京橋のホーマー製菓の青井英隆社長(あおい輝彦の父[4])が早稲田大学野球部時代の先輩だった市岡忠男に依頼されてスポンサーとなり結成された。

『パールス』:2月に国際観光を母体として結成された。

これらのチームは、一般公募から選抜した選手(相変わらず「容姿端麗」が選抜基準の1つとなっていた)とブルーバードやメリーゴールドに所属していた選手を分配トレードする形で構成された。

これらの4チームの球団代表が連盟を結成することで同意し日刊スポーツ社に事務方を依頼した結果、同社の井上(斎藤)弘夫が事務局長となり1950年3月28日に日本女子野球連盟が結成された。連盟の理事会において6月から11月までの間に公式リーグ戦30試合を連盟主催で行うこと、また新規加盟希望球団については開放主義で受け入れることなどが合意された。ただし、リーグ戦については後述の連盟分裂などの影響で1950年シーズンに関しては機能しなかったようである。
1950年

1950年4月10日、日本女子野球連盟の初めての公式戦となる日本女子野球連盟結成記念トーナメント大会が1万7000人の観客を集めて後楽園球場で開催された。

(第1試合)ロマンス・ブルーバード 14 ? 2 レッドソックス

(第2試合)ホーマー 6 ? 0 パールス

(決勝戦)ロマンス・ブルーバード 12 ? 1 ホーマー

最高殊勲選手は大島雅子投手(ロマンス・ブルーバード)であった。

トーナメント終了後、2ヵ月にわたってブルーバードとレッドソックス、パールスとホーマーがそれぞれ組になって地方遠征を行った。各地で3000人以上の観客を集めるなど女子プロ野球人気は盛り上がり、それに乗って各地に新しい球団が誕生した。その数は最大で25チームにもなったが、多くのチームは資金難で半年以内に消え去っている。以下は比較的長期間存続したチームである。

『エーワン・ブリアンツ』:エーワンポマード本舗がスポンサー。「ブリアンツ」は英語の"Brilliants"だが、カタカナでは「ブリアンツ」と表記された。球団経営に際しては宣伝意識の強い他球団より本腰だったと言われ、結成当時の入団テストでは審査員としてヴィクトル・スタルヒン杉下茂といった男子プロ野球選手が担当した。チームはその後、親会社が名古屋発祥だったことから中日ドラゴンズよりペットネームを拝借し、「エーワン・ドラゴンズ」と改称した。

『京浜ジャイアンツ』:京浜急行電鉄、京浜百貨店(現:京急ストア)がスポンサー。

『わかもとフラビンズ』:わかもと製薬がスポンサー。ローズ女子野球団の選手を引き継いで結成された。「フラビン」はビタミンB2の学名「リボフラビン」から採られた。

その他、地方で結成されたチームには下記のようなものがある。

名古屋レインボー

滋賀レーク・クイン

京都ヴィナス

京都ラアミース

大阪ダイヤモンド

神戸タイガース(大阪タイガースとは無関係)

京都マルエイイーグルス


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