日本女子大学
[Wikipedia|▼Menu]

日本女子大学
日本女子大学(目白台キャンパス)
大学設置1948年
創立1901年
学校種別私立
設置者学校法人日本女子大学
本部所在地東京都文京区目白台二丁目8番1号
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度43分1.1秒 東経139度43分13.3秒 / 北緯35.716972度 東経139.720361度 / 35.716972; 139.720361座標: 北緯35度43分1.1秒 東経139度43分13.3秒 / 北緯35.716972度 東経139.720361度 / 35.716972; 139.720361
学生数6,572
キャンパス目白キャンパス
学部家政学部
文学部
人間社会学部
理学部
国際文化学部
研究科家政学研究科
文学研究科
人間社会研究科
理学研究科
人間生活学研究科
ウェブサイトhttps://www.jwu.ac.jp/unv/
テンプレートを表示

日本女子大学(にほんじょしだいがく、英語: Japan Women's University 略称: JWU)は、東京都文京区目白台二丁目8番1号に本部を置く日本私立大学1901年創立、1948年大学設置。大学の略称は本女(ぽんじょ、ほんじょ)、日女(にちじょ)[注 1][注 2]成瀬記念講堂内部(目白キャンパス)

創設者成瀬仁蔵と創設委員長大隈重信[注 3]を中心に創設された日本初の女子大学であり、日本における女子高等教育の先がけとなった。.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left} 日本女子大学
概観
大学全体
日本女子大学校

日本女子大学校は、明治時代に日本で初めての組織的な女子高等教育機関として誕生した。女性に教育は有害無益であると考えられていた当時、創設者成瀬仁蔵は著書『女子教育』によって必要性を力説。創立にあたっては、東京専門学校(現・早稲田大学)の創立者大隈重信が創立委員長となり、総理大臣伊藤博文、学習院院長近衞篤麿、文部大臣西園寺公望、財界人渋沢栄一岩崎弥之助等各界の重鎮の多大な支援を受け、広岡浅子の働きかけで三井財閥から東京・目白の地(現在地)を寄贈され開校。開校時は、家政学部、国文学部、英文学部の三つの学部と、附属高等女学校が設置された(『わたしの大学』日本女子大学より引用)。
通信教育

通信教育課程については、男性は科目等履修生としてのみ在籍可能。通信制大学院も設置された。通信教育で、中学や高校の家庭科保健科教員免許の取得が可能な数少ない大学。近畿大学豊岡短期大学近畿大学九州短期大学の通信教育課程中学家庭科教員養成コースが廃止されたため、現在は、通信で家庭科教員免許が取得できる、日本国内で唯一の大学となっている。ただし、科目等履修生の教育実習や介護等体験の履修は、日本女子大学の卒業生のみに限定している。そのため、通信教育で家庭科や保健科の教員免許を取得できる男子学生は、すでに国語・英語・音楽といった家庭科や保健科以外の何らかの教科の中学免許や高校免許を取得済の者に限られる。放送大学学園と単位互換協定を結んでおり、放送大学で取得した単位を卒業に要する単位として認定することができる[1]
その他

かつて「ジーンズを着て通学すること」の是非を巡り全学ストライキに発展したことがあった。まだジーンズが「貧乏人の服」であり、『理由なき反抗』などで着用していたことからそのイメージができた)でもあった時代のことである。

附属中高とともに、夏期休暇の時期に大学所有の軽井沢にある三泉寮で宿泊セミナーが行われ、互いの考えを交換し高めあういい機会になっている。
建学の精神(理念)

『女子教育』において「女子を人として教育すること」、「女子を婦人として教育すること」、「女子を国民として教育すること」の三方面から女子高等教育の方針を述べ、建学の精神となっている。

教育の特色は建学の精神を踏まえ、「人格教育」と「社会的人格の養成」にあり、晩年教育綱領として示された「信念徹底」、「自発創生」、「共同奉仕」にその理念を見ることができる。「信念徹底」は人の道の根本原理、「自発創生」は個人の創造性や主体性を育てる個性的な原理、「共同奉仕」は他者との共生を図る社会的な原理として位置付けている。(『わたしの大学』日本女子大学より引用)
沿革創立者・初代校長 成瀬仁蔵(在任1901~1919)

1896年明治29年) - 成瀬仁蔵『女子教育』出版。「日本女子大学校創設之趣旨」発表。

1897年(明治30年) - 第一回創立委員会開催。大隈重信、創立委員長となる。

1900年(明治33年) - 三井家より、目白台に女子大学敷地として五五二〇坪の寄付を受ける。

1901年(明治34年)4月20日 - 女子高等教育の第一人者、成瀬仁蔵によって、「女子を人として、婦人として、国民として教育する」という教育方針を掲げ、日本女子大学校[注 4]として創立された。

1904年(明治37年) - 専門学校令による専門学校として認可[2]

1948年昭和23年) - 学制改革によって新制大学としての日本女子大学が発足、家政学部・文学部を設置。

1949年(昭和24年) - 日本女子大学通信教育部開講。

1990年平成2年) - 西生田に人間社会学部を設置。

1992年(平成4年) - 理学部を設置。

2001年(平成13年) - 学習院大学学習院女子大学立教大学早稲田大学との五大学間学生交流開始。

2021年4月 - 西生田キャンパスの人間社会学部を目白キャンパスに移転。西生田キャンパスを廃止。

2022年5月18日 - 2022年4月に文部科学省に対し国際文化学部の設置届出を行ったことに伴い、2023年度以降の人間社会学部文化学科の募集停止を発表[3]

2023年4月 - 目白キャンパスに国際文化学部を開設[4]。全員に海外短期研修を必修化するなどし、国際的な視点を意識しグローバルな自己を醸成する。

2024年4月 - 目白キャンパスに建築デザイン学部を開設[5]。これに伴い、家政学部住居学科、通信教育課程生活芸術学科は、2024年度以降の学生募集を停止する見込みであることが発表された[6]

教育および研究
学部

家政学部

児童学科

食物学科

食物学専攻

管理栄養士専攻


住居学科(2024年4月学生募集停止)

居住環境デザイン専攻

建築デザイン専攻


被服学科

家政経済学科


家政学部(通信教育課程)

児童学科

食物学科

生活芸術学科


建築デザイン学部(2024年4月開設)


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:108 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef