日本女子体育専門学校_(旧制)
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日本女子体育専門学校

創立当時の二階堂体操塾(1922年)
創立1922年
(「二階堂体操塾」として)
所在地東京府豊多摩郡代々幡町代々木山谷
 →東京府荏原郡松沢村
 (閉校時は東京都世田谷区松原
校長二階堂トクヨ(1922-1941)
二階堂清寿(1941-1951)
設置学科本科、専修科、専攻科
共学・別学男女別学(女子校)
廃止1951年
後身校日本女子体育短期大学
日本女子体育大学
同窓会松徳会

日本女子体育専門学校(にほんじょしたいいくせんもんがっこう)は、東京府荏原郡松沢村(閉校時は東京都世田谷区松原)に存在した旧制女子専門学校日本女子体育短期大学[1]日本女子体育大学の前身となった学校である[2]二階堂トクヨ個人で開設した二階堂体操塾(にかいどうたいそうじゅく)を起源とする[3]

代々木民家を改修した小さな塾舎で[4]女性体操教師の育成を目的に設立し[5]、1期生からほぼ全員が中等学校へ就職した[6]関東大震災を契機に松沢村へ移転し[7]、昭和初期には日本最大の女性体操教師養成機関に発展した[8]一方で、人見絹枝が卒業して以降はスポーツを志す生徒が多く入学し、女性アスリートの養成機関を兼ねるようになった[9]。重要な教材としてダンスを採用し[10]、女性らしい健康な心と体づくりを掲げて[11]厳格な教育を施した[12]
歴史
創設の経緯

1915年(大正4年)、二階堂トクヨはイギリスのキングスフィールド体操専門学校[注 1](Kingsfield Physical Training College, KPTC、現・グリニッジ大学(英語版))でスウェーデン体操、アレキサンドラ夫人体操専門学校でドイツ体操、舞踏塾でダンスを学んで日本に帰国した[13]。直ちに東京女子高等師範学校(東京女高師、現・お茶の水女子大学)の教授に就任してダンス・体操・遊戯・スポーツの指導を開始し、3冊の著書を立て続けに上梓して日本にイギリスの体操や体育界の様相を伝えた[14]。しかし指導内容や方針を巡って上司永井道明と対立し[15]、同僚に妬まれ[16]、校内で孤立することとなった[17]。また私生活では、縁談が破談し、精神的に動揺していた[18]。このような公私に渡る悩みを振り切ることで、トクヨは「女子体育の使徒」としての自覚を強めていき[19]、体操研究と指導者育成を担う「体育研究所」の設立を目指して募金活動を開始した[20]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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