日本女子ボクシング協会
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日本女子ボクシング協会(にほんじょしボクシングきょうかい、英:Japan Women's Boxing Commission、略称:JWBC)は、日本国内における女子プロボクシングを統括していた団体である。2008年1月17日、解散。女子のプロボクシング団体としては、国内最大の団体であった(解散時約130名)。
概要

コミッションも兼ねており、高市早苗コミッショナーを務めていた。国内や海外で定期的に試合を行っていた。

JWBC発足前はマーシャルアーツ日本キックボクシング連盟にて理事長を務めていた元ウルフ隼人こと山木敏弘の発案により同連盟の興行内で女子ボクシングの試合を挿入しており、シュガーみゆきによる日本人初の女子世界王座奪取が大きな契機となり独立。

なお、キックボクシングジムが母体であり、日本ボクシングコミッション(JBC)とは繋がりはなかった。そのため発足当初、選手の大半はキックボクシングからの転向あるいは掛け持ちが占めていた(前出のシュガーみゆきもシュートボクシングからの転向だった。また、亜利弥’藤井巳幸ら現役女子プロレスラーの参戦もあった。なお、1990年代の海外女子ボクシングでもルシア・ライカレジーナ・ハルミッヒブリジット・ライリーらキックから転向した名ボクサーが多かった)。しかし、次第にボクシングだけをする女性が増え、多数の世界王者も誕生した。JBCが女子の参加を認めるまでは、JWBCがプロテストを行っていた。

世界王座・ランキングは基本的にどの団体でも認めていたが、国内で開催された世界戦は歴史の浅い女子国際ボクシング協会(WIBA)に限られた。WBAWBCを含む他団体のタイトルマッチはJBCへの配慮などから専ら海外で行われた。これがJBCの女子解禁に繋がったともされる。
歴史

1999年4月 - ニュージーランド出身の女子キックボクサーマリー・スピードらによって設立。本部は東京都世田谷区北沢の山木ジム


1999年5月31日 - 北沢タウンホールにおいて女子ボクサーだけの初の単独興行「LADY GO」が開催される(初代ミニフライ級王座決定トーナメント他全8試合)。


1999年8月9日 - 初代ミニフライ級王座に中沢夏美が就く。


2000年5月8日 - 第4回大会において、ライカがデビュー戦をKO勝ち。


2000年8月5日 - JWBC初の世界戦として高野由美が韓国・ソウルでIFBAジュニアフライ級に挑戦。


2000年12月12日 - 第5回大会が開催され、ライカと八島有美が初の国際戦を経験、ともに勝利を収めた。


2001年3月2日 - 初代フライ級王座決定トーナメントが行われる。


2002年1月 - ライカの自伝「私は居場所を見つけたい」が発刊される。


2002年2月3日 - 初代フェザー級王座決定戦、初代フライ級王座決定戦が行われる。フェザー級王座にはライカが、フライ級王座には八島有美が就く。


2002年4月29日 - ライカが世界フェザー級王者レイラ・マッカーターと対戦、判定負け。


2002年9月7日 - ディファ有明にて国際戦他、全7試合が行われる。


2002年12月18日 - 代々木第二体育館において、JWBC初開催となる世界戦他全6試合が行われる。デビュー10戦目でライカが日本女子初の世界王座を獲得。初の民放放送(テレビ朝日)が決定、翌年1月25日オンエア。


2003年6月25日 - 六本木ヴェルファーレにおいて、ライカの世界戦、初代バンタム級王座決定戦他、全10試合が行われる。バンタム級王座にマーベラスが就く。


2003年11月30日 - 六本木ヴェルファーレにおいて、ライカの初防衛戦他、全6試合が行われる。ライカはシャロン・アニオスを制し、世界戦初防衛に成功。


2004年5月23日 - 六本木ヴェルファーレにおいて、ライカの2度目の防衛戦他、全6試合が行われる。ライカはシェルビー・ウォーカーを2RKOに退け、防衛に成功。


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