この項目では、町名と由来となる街路「日本大通り」について説明しています。鉄道駅については「日本大通り駅」をご覧ください。
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日本大通り
町丁
国 日本
都道府県 神奈川県
市町村 横浜市
町名制定1889年(明治22年)4月1日
町名廃止1899年(昭和32年)7月24日
日本大通(にほんおおどおり)は、横浜市中区の町名および道路。
横浜市中心部の関内地区にあり、神奈川県庁などが位置する官庁街となっている。「丁目」の設定のない単独町名である。住居表示は未実施[5]。
道路は日本初の西洋式街路とされており[6]、菊池道路環境賞などを受賞している[6]ほか、平成14年度には国土交通省手づくり郷土賞(地域整備部門)受賞。 北東から南西方向にやや長い長方形の町域を持ち、面積は0.096km2[7]。中央を北東 - 南西に日本大通り、北西 - 南東に本町通りが貫き、港郵便局前交差点で交わる。北東は海岸通りを挟んで海岸通、南東は大桟橋通りを挟んで山下町、南西は横浜公園、北東はみなと大通りを挟んで元浜町・北仲通・本町・南仲通・弁天通・太田町・相生町に接する。港郵便局前交差点の北はキングの塔の別名を持つ神奈川県庁本庁舎、東は横浜港郵便局や横浜開港資料館、県庁分庁舎、南は中区役所や横浜情報文化センター、神奈川県住宅供給公社、朝日新聞社横浜総局、西は横浜地方検察庁・横浜地方裁判所・横浜簡易裁判所や日本銀行横浜支店などが位置する。本町通り地下にはみなとみらい線が通り、日本大通り駅が設けられている。2000年(平成12年)の国勢調査では住民は1人であったが[8]、オフィスビル跡にマンションが建つ。 かつての久良岐郡横浜村の一部に当たる。1859年(安政6年)の横浜港開港の際に外国人居留地となったが、当初は町名が設けられなかった[9]。1866年(慶応2年)の大火を契機に外国人側は居留地の拡張・拡充を要求、横浜居留地改造及競馬場墓地等約書が定められ、大規模な区画整理が行われた[10]。1870年(明治3年)に横浜公園と象の鼻波止場を結ぶ街路が完成[11]、この通りは1875年(明治8年)に日本大通りと名付けられる[11]。1879年(明治12年)に外国人居留地に町名が設けられ、当地は通りの名をとって日本大通と名付けられた。1889年(明治22年)の市制施行に際して、日本大通り(にっぽんおおどおり)が設置された[12]。1899年(明治32年)7月24日に山下町に統合され[13]、山下町字日本大通となったが、1928年(昭和3年)9月1日に境町全域と山下町・本町の一部から改めて日本大通(にほんおおどおり)が新設された[14][9]。 イギリス人建築家リチャード・ブラントンの設計により、1870年(明治3年)に日本初の西洋式街路としてほぼ完成した。当時は歩道3メートル・植樹帯9メートルを含む36メートルの幅員を持ち、横浜のメインストリートの役割を果たした。下水道と一体で整備され、マカダム舗装された日本大通りは「近代都市計画の嚆矢」と評されることもあるが[15]、『横浜居留地改造及競馬場草地等約書』に「火災を防がんため」とあるように、当初は都市景観のためではなく、火除地・防火帯としての機能と、日本人街とのゾーニングのために設計された広小路の一種と考えられる[15]。
地理
沿革
日本初の西洋式街路「国道133号」も参照