.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}日本大学第一中学校・高等学校(にほんだいがくだいいちちゅうがっこう・こうとうがっこう)
2011年8月撮影
日本大学第一中学校・高等学校(にほんだいがくだいいちちゅうがっこう・こうとうがっこう、英: Nihon University Daiichi Junior & Senior High School)は、東京都墨田区横網一丁目にある「学校法人 日本大学第一学園」が設置する男女共学の私立中学校・高等学校。日本大学が付属校として最初に設置した学校である。日本大学特別付属校として創立110年を超える歴史を持ち、創立時?戦前・戦中そして終戦、戦後の混乱、幾多の困難を乗り越えて現在に至るまで、揺るぎない「日本大学筆頭付属校」であるのは明らかな史実が記すところである。通称は「日大一中・日大一高」、「日大一」と呼ばれているが、単に「一高(いちこう)(いっこう(男子校時代))」と呼ばれることもある。 1889年(明治22年)設立の日本法律学校を起源とする日本大学は、神田三崎町に新校舎を建築移転後、中等教員養成を目的に高等師範科(1903年高等師範部に改称、現在の文理学部)を設置する。 明治後期になると中等教育普及の重要性が国民教育振興の観点から中学校の誕生を強く叫ばれるようになり、こうした状況に日本大学常任理事の石渡敏一は、国家の要請する中等教育普及に役立ち、大学の経営面にも寄与し、そして高等師範部学生の教育実習の場の必要性と日本大学の教育理念を実現し大学教育の成果向上には一貫教育が重要と考え、1912年(大正元年)付属中学校設立の計画を立てる。 しかし、併設でなく新設となると財政面等で簡単なことではなかった。それでも時の日本大学初代学長(初代総長)松岡康毅は新設推進に踏み切り、石渡敏一が付属中学校設立の中核となって日本大学幹事加納金助とともに創立の準備をする。 その後、設立起案が整い大学理事会の承認を経、文部大臣の設立認可を得て 1913年(大正2年)2月、日本大学最初の付属校として東京・神田三崎町の日本大学構内に日本大学中学校として創立[1]。この日本大学中学校が、現在の日本大学第一中学校・高等学校の前身である。 設立当初は経営費が乏しく校舎・校庭も狭隘で困難な開校であったが、教育熱心な教職員を揃えられ、入学生徒も成績優秀でおしなべて温順であったことは歴史の一端である。2代校長には、日本法律学校第1回卒業生で首席卒業し衆議院議員でもあった荒川五郎が就任。荒川は毎朝校門で生徒を出迎えるなど、教育熱心な名校長として生徒から慕われていた。 1924年(大正13年)9月、日本大学中学校内にて同年3月に開校していた日本大学工学校を吸収し日本大学商工学校が設立される。中学校が昼間に使用した校舎を利用し夜間に授業が行われていた。 1924年(大正13年)に現在地へ移転し、1927年(昭和2年)には敷地内に夜間授業であるものの、卒業生には高等教育機関への進学資格も得られる日本大学商業学校を併設した。なお、戦前の日大の組織内では、各付属中学校・商業学校は「普通部」と称し、一中と一商は「第一普通部」としてまとめられていた。 1946年(昭和21年)、第二次世界大戦後の財閥解体・集中排除という一連の政策の影響により日本大学より分離独立し、別法人となっている。現在は日本大学の特別付属校であり、学校法人日本大学第一学園が経営している。日本大学の特別付属校には同校の他に日本大学第二中学校・高等学校、日本大学第三中学校・高等学校および同学校法人が経営する千葉日本大学第一中学校・高等学校がある。 両国という場所柄もあって、かつては角界関係者の子弟も多く在学していたという。なお、現在地は幕府の御米蔵である本所御蔵があり約4万4千坪の敷地に37棟もあったとされる。明治時代に入り陸軍本所被服廠となり、現在は伝統と文化に彩られた街「両国」として庭園や博物館に囲まれ古寺など数多くの歴史的建造物が残る情緒豊かな街並みである。 学校法人日本大学第一学園が経営し同学園には小学校も併設され、小学校卒業後は日大一中あるいは千葉日大一中に進学する。
概要
組織