日本大博覧会
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吉武東里設計、「日本大博覧会」青山会場鳥瞰図。東側から会場を俯瞰している。

日本大博覧会(にほんだいはくらんかい)は、1905年の日露戦争勝利後に構想が具体化し、内国勧業博覧会万国博覧会の折衷的な位置づけで1912年に開催されることが、1907年に正式決定された博覧会である。実質的な内容は万国博覧会であったが、財政難などのため1908年には明治天皇在位50周年となる1917年へと延期され、1911年には中止が決定した。しかし国の正式な計画として決定し、一部工事も始められていた「日本大博覧会」は、その計画内容が明治神宮の内苑と外苑に受け継がれていくなど後世に影響を与えた。

なお、本記事では「日本大博覧会」とともに、1903年に行われた「第五回内国勧業博覧会」など計画のみで終わった「亜細亜大博覧会」後の万博開催に関する動きについても説明する。
第五回内国勧業博覧会と万国博覧会
国力に対する自信と万博構想

万国博覧会は1851年に開催された「ロンドン万博」に始まった。「ロンドン万博」は約600万人の観客を集め大成功を収め、以後、欧米各国は競って万国博覧会を開催していく[1]日本の万博参加は1867年のパリ万博が初であった[1]。日本では欧米諸国の万博に参加をしながら、1877年から殖産興業政策の後押しを目的とした内国勧業博覧会を開催することになる[2]

そのような中で日本でも万国博覧会を開催しようとの声が挙がるようになり、1885年には「亜細亜大博覧会」の開催計画が持ち上がった。これは日本初、アジア初の万国博覧会構想であった[3]。財政難等を理由とした大蔵省の反対により、「亜細亜大博覧会」は計画倒れに終わってしまったが、内国勧業博覧会の運営に携わる関係者の間では、「亜細亜大博覧会」の事実上の構想者であった佐野常民のみならず、内国勧業博覧会の先には万国博覧会開催があるとの意識が浸透していった[4]。またマスコミでも万博の開催を見据えた論評が見られるようになる[4]

そして日清戦争の勝利により、国力の伸展を自覚する中で万国博覧会開催に向けての意識が高まっていく。1895年に開催された「第四回内国勧業博覧会」の審査総長であった九鬼隆一は、日清戦争の勝利後である1895年4月に、日本は既にしてかつての日本ではなく、東洋の日本でもなく世界の日本であるとした上で、「(日清戦争)開戦以来、万国ひとしく我が国に着目せるを機として、更に万国大博覧会を戦争終局の後に開設せんことを希望」するとして、日清戦争勝利の余勢を駆って万博を開催しようと主張した[5]。また大隈重信も日清戦争の勝利により日本は世界の強国入りを果たしたとの認識を示した上で、万国博覧会を開催して日本と欧米の工業製品とを比較する機会を設け、まだ欧米諸国よりも遅れている工業の更なる発展を図り、さらには万国博覧会開催によって世界に列強の仲間入りを披露する機会とすべきと主張した[6]。1898年10月、読売新聞は来る1902年はペリー来航50周年になるので、50周年を記念して「太平洋沿岸諸州博覧会」の開催案を紙上で提案した。なお万国博覧会ではなく「太平洋沿岸諸州博覧会」とした理由は、大規模な万博開催は日本の国力に余る事業であり、内国勧業博覧会と万博との中間的な博覧会がふさわしいとの意図であった[6]
万博開催への模索

1898年10月、農商務省は第三回農商工高等会議に「第五回内国勧業博覧会」開催に関する諮問を行った。諮問の内容はまず、1899年に開催予定の「第五回内国勧業博覧会」は、1900年に開催予定が決まっていた「パリ万博」の準備と時期が重なるため1902年に延期することについて。そして次回の内国勧業博覧会は日清戦争勝利後初めての開催となり、1902年はペリー来航50周年でもあり、博覧会の規模を欧米と肩を並べる我が国にふさわしく拡大して、海外の工芸品を収集、展示することについて。また諸外国で開催された万国博覧会の失敗例を参考として、日本と関係がある諸外国に参加を求め、万博よりは規模の小さな博覧会とすることについての3点であった[7]

農商工高等会議ではまず「第五回内国勧業博覧会」の延期についてはすんなりと認められたものの、万博の要素を加味することになる第二、第三の諮問内容については、1902年の万博開催は時期尚早であるとのコンセンサスは得られたものの、「第五回内国勧業博覧会」にどの程度万博的な要素を入れ込むのか、そしていつ本番の万国博覧会を開催するのかについては意見がまとまらなかった。結局、「第五回内国勧業博覧会」では新たに万国貿易部を設け、万国博覧会開催については後日検討するという形の答申となった[8]。1901年4月、農商務省は第五回内国勧業博覧会開催に向けて評議員会を開催した。評議員会の席で林有造農商務大臣は、これまでの内国勧業博覧会の枠にとらわれず、外国貿易の促進を図るような面目を一新した博覧会にするとの抱負を述べた[9]

実際問題、万国博覧会開催や内国勧業博覧会に外国が参加するためには法制度の整備も不可欠であった。これまでの不平等条約では外国人は居留地内でのみ商業行為が可能であったため、内国勧業博覧会の会場で外国製品を販売するためには条約改正が必要であった。また外国人は治外法権の特権があった反面、日本国内では工業所有権の保護は適用されなかった。つまり日本では外国から輸入した機械類等を無許可でコピー製品を製作、販売することが可能であった。このような状況下では諸外国に博覧会への出品を求めることは極めて困難であった[10]。結局、1894年に締結された日英通商航海条約の後に諸外国と同等の条約を締結する中で内地雑居が実現し、また1899年にはパリ条約に加入し、同年、特許法意匠法商標法の関連法令の整備を行い、諸外国からの博覧会出品に対して工業所有権の保護がなされる環境が整えられた[11]
参考館、台湾館、人類館の設置
参考館の設置

第三回農商工高等会議で諮問された万国貿易部は参考館として設置されることになった[12]。参考館の設置は将来の万国博覧会開催を見据えたものであった[13]。1902年の開催予定は1900年「パリ万博」参加準備のため1903年に再延長されたが、19世紀末から20世紀初頭にかけては「パリ万博」の他、「セントルイス・ルイジアナ購買記念万博」、「グラスゴー万博」など欧米諸国の万国博覧会が目白押しであり、各国はそれら万博への出展準備に追われ、第五回内国勧業博覧会への出品に消極的になることが危惧された[14]

ところが実際ふたを開けてみると諸外国からの出品依頼が殺到することになった。当初、主催の農商務省は参考館の名前通り、諸外国からの出品を参考程度展示する予定であり、規模も300坪の予定であったが、殺到する出品依頼に対応すべく最終的には1750坪にまで広がった。そして参考館以外にも展示を希望する諸外国側が費用を出した独立館を6館設置することになった[15]。「第五回内国勧業博覧会」には日本以外に18の国、地域が参加し、外国企業からも代理店を通じての出品が実現し、さながらミニ万国博覧会の様相を呈した[16][17]。諸外国からの出品が殺到した理由としては、日本が各国製品を売り込む格好の市場であると見なされていたためであり、政府は諸外国の積極的な参加は、将来の万博開催に向けてのステップとして大変に有効であったと評価した[18]

また後述の台湾館などとともに参考館、独立館は多くの観客を集め、娯楽性を高めた他の展示内容も相まって、「第五回内国勧業博覧会」は約530万人の観客を動員し、開催地の大阪市に多大な経済効果をもたらした[19]。この「第五回内国勧業博覧会」の成功はその後の博覧会の経済効果を狙った動きへと繋がっていくことになる[20]
台湾館の設置

「第五回内国勧業博覧会」では、1900年の「パリ万博」における植民地館をモデルとして、台湾総督府が台湾を内地に紹介することを目的として設置が検討された[21]。台湾総督府の構想は予算不足のためいったんは頓挫したが、1901年度の予算で「第五回内国勧業博覧会」の場で台湾を紹介するための経費が認められ、1901年10月に台湾館の設置が公式に認められた[22]


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