日本型食生活
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日本型食生活(にほんがたしょくせいかつ)は、米を主食として、野菜、大豆、魚、海藻を中心とした日本の伝統的な食習慣が大きな影響を与えて、動物性脂肪砂糖の行き過ぎを避けた独自の食生活である[1]1980年昭和55年)に農林水産省が提起し、1983年(昭和58年)に農林水産省より提唱された食生活のあり方である。米は精製しすぎないものが望ましいという意見は、問題ないのではと最終的には盛り込まれなかった[1]。同様の指針は1985年に食生活指針が策定され、15年ごとくらいに改定されている。

日本は1945年に第二次世界大戦が終わると、熾烈な食糧難の中でアメリカ合衆国からの食糧援助を受け、そうした食材の利用を普及するべく欧米型の食事を国を挙げて普及させた。だが、当のアメリカで食事が起こす健康問題が明らかとなり1977年に「米国の食事目標」が作られると、影響を受けて日本で模索されたのが日本型食生活である[2]目次

1 概要

2 経緯

2.1 栄養改善の達成


3 望ましい食生活

4 日本の伝統

5 和食

6 脚注

6.1 注釈

6.2 出典


7 参考文献

8 関連項目

9 外部リンク

概要

「日本型食生活」とは、昭和50年代の日本人の食生活を基礎とし、米飯を中心とし、主、副菜があり、野菜果物など多種多様な食品を摂るという食事内容のことである。汁物および主菜1品と副菜2品から成る一汁三菜を基本としたもので[注 1]、米飯を中心として組み立てることによって、和風のおかず・西洋風のおかず・中華風のおかず等々と組み合わせることができるものであり、栄養的なバリエーションがひろげやすい、バランスにすぐれた食事の組み立て方である。この米と魚と野菜の日本型の食生活をしてきたことが、日本人が世界有数の長寿であることの主たる理由だと国際的にも評価され、健康長寿に良い食事スタイルである。また、他国への食糧依存度を高めないため食料自給率食料安全保障からも望ましい食事スタイルである[3]
経緯

第二次世界大戦後の食糧難のなか、アメリカの経済援助で小麦粉が大量に輸入され、占領政策の一環で学校給食はこの小麦粉を使ったパン脱脂粉乳が主体であったため、子供たちを中心にパン食が普及した。連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥は「我が輩は米と魚と野菜の貧しい日本人の食卓を、パンと肉とミルクの豊かな食卓に変えるためにやってきた」と豪語している[4]

さらに、小麦粉が自由販売になった1952年(昭和27年)には栄養改善法が公布されたが、そのねらいは食生活洋風化の推進にあった。それは、GHQ公衆衛生福祉局長のクロフォード・F・サムス准将が「太平洋戦争はパン食民族と米食民族との対決であったが、結論はパン食民族が優秀だということだった」とのべていることからみても、うたがいない[4]。そして厚生省は、栄養改善法に基づいて国民栄養調査を実施し栄養改善運動を始めた。そのため当時の栄養教育は、欧米流の栄養学を基礎とし、栄養改善運動ではパンを重視するなど欧米追随指向が顕著であり、欧米風の食生活を理想としていた。偏重の是正が叫ばれ、日本人の主食とされてきた米は遠ざけられ、米は市場にだぶつき過剰時代に入り、1970年(昭和45年)には減反と米の買い入れ制限が始められた[5]。日本人1人あたりの米の年間消費量は、戦後のピークの1962年(昭和37年)には118.3キログラムだったものが、その後一本調子で減少し1990年代後半には、ひと頃の半分の60キログラム台に落ち込んだ[6]
栄養改善の達成

1955年(昭和30年)に日本食生活協会が設立され、アメリカから資金援助を受け、キッチンカー(栄養指導車)を使って、栄養士が和洋中華の料理の実演をし指導した。栄養改善運動では様々なおかずを食べる指導が重視され、この結果おかずの比重が増加した。1965年(昭和40年)代ごろ以降は、小麦の消費量が増えていない一方で米のみが減少しており、国立民族学博物館名誉教授石毛直道は、米の消費が減ったのは小麦製品の消費増というよりもおかずを沢山食べる様になったからと指摘している[7]。またこの頃、都市ガスに加えプロパンガスが普及し始め、ステンレス流し台が発売され、家庭料理の在り方は大きく変化した。いつでもが自由に使えるようになり、焼き物が手軽になり、強力な火力を必要とする揚げ物炒め物も簡単に作れるようになった。日本伝統的調理である煮物和え物の比重が低下し、欧米風、中華風の料理が食卓に提供されるようになった。西洋料理中華料理には肉類が欠かせないが、その普及に象徴的なものが魚肉ソーセージである。もちろん魚肉ソーセージは魚を原料とし肉類ではないが準ずるものとして扱われ、日本の肉食の普及を側面から支え、しだいに実際の肉類の消費が増加し、米と魚と野菜の日本の伝統的食生活に代わり、肉類を使った欧米風・中華風の食生活が普及していった[5][8]

もともと日本人は米食悲願民族といわれ、都市部でも上流階級以外は白米を十分食べることができず、農村では水田地帯でさえも米以外の穀物や野菜などを大量に入れて混炊したかて飯を主食とし、作地帯では米はわずかしか手に入らず雑穀や芋類を食べる食事であり、加えて戦中戦後の米不足は凄まじく、大半の日本人が米を常食することはできなかった[9]。それは闇市や、米よこせと叫んだ飯米獲得人民大会からも伺える。

その後、昭和40年代(1965年-1974年)初頭になって、ようやく米の自給が達成され名実ともに日本人の主食になった。この頃の日本人の食生活は、フランス農学者、ジョセフ・クラッツマンをして、タンパク質脂質炭水化物のカロリー比率が理想的と言わしめたものであり、このバランスのとれた食生活のおかげで日本人の健康は目を見張る改善を実現し、平均寿命が世界トップクラスになった[10]。また、医療費の増大に困っていたアメリカが、マクガバンレポートで、肉・乳製品・卵といった動物性食品を減らし、精白していない穀物や野菜、果物を多く摂るように勧告したその利用的な食事バランスは、当時の日本人の食生活が達成していた[注 2]


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