日本国有鉄道
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前身の官営鉄道事業については「鉄道省」をご覧ください。

日本国有鉄道
Japanese National Railways
(上)JNRマーク
(下)鉄道旗(国鉄社旗)
種類特殊法人
略称国鉄、JNR
本社所在地 日本
100
東京都千代田区丸の内一丁目6番5号(国鉄本社ビル
設立1949年6月1日
業種陸運業
事業内容日本国有鉄道法(廃止)に基づく鉄道事業及びその附帯事業の経営、鉄道事業に関連する海上運送事業・自動車運送事業及びその附帯事業の経営、鉄道事業用地における石油パイプライン事業及びその附帯事業の経営ほか[1]
代表者歴代の国鉄総裁
資本金8,375億円(資本金等;昭和60)[2]
営業利益▲20,201億円(昭和60)[2]
経常利益▲18,478億円(昭和60)[2]
純資産▲88,011億円(債務超過; 昭和60)[2]
総資産119,028億円(昭和60)[2]
決算期3月末[3]
主要株主日本国政府(100%)[4]
特記事項:1987年4月1日、日本国有鉄道清算事業団に移行[5]。1998年10月22日、日本国有鉄道清算事業団解散。
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国鉄本社玄関銘板(現在鉄道博物館所蔵)

日本国有鉄道(にほんこくゆうてつどう、にっぽんこくゆうてつどう[注釈 1]英語: Japanese National Railways、英略称: JNR)は、日本国有鉄道法に基づき日本国有鉄道を運営していた公共企業体である。略称は国鉄(こくてつ)。

経営形態は政府が100%出資する公社特殊法人)であり[6]、いわゆる三公社五現業の一つであった。職員は公共企業体労働関係法で規定される国家公務員である[7]

鉄道開業以来、国営事業として鉄道省などの政府官庁によって経営されていた国有鉄道事業[注釈 2]を、独立採算制の公共事業として承継する国(運輸省)の外郭団体として1949年昭和24年)6月1日に発足した。

1987年(昭和62年)4月1日国鉄分割民営化に伴い、政府出資の株式会社特殊会社)形態であるJRグループ各社及び関係法人に事業を承継し、日本国有鉄道清算事業団1998年(平成10年)10月22日解散)に移行した[5]
概要1964年に開業し、国鉄の象徴となった新幹線(1987年、小倉駅

日本国有鉄道は、国営事業として運輸省鉄道総局が国の「国有鉄道事業特別会計」によって行っていた国有鉄道事業およびその関連事業を引き継ぎ、国有鉄道を独立採算制の公共事業として経営することを目的に1949年(昭和24年)6月1日に発足した国の公共企業体である。

分割民営化直前の1987年(昭和62年)3月31日時点で新幹線在来線併せて総延長19,639キロメートル鉄道路線を持ち、30局の鉄道管理局と総局で運営した。このほか鉄道に関連する船舶事業(航路延長132キロメートル)、自動車(バス)事業(路線延長11,739キロメートル)などを行っていた。

最高責任者である「総裁」は内閣が任命し、任期は4年間。次席の「副総裁」は運輸大臣認可を受けて総裁が任命し、任期は4年間。さらに技術面で総裁を補佐する「技師長」が置かれた。このほかの役員として任期3年の理事(11人以上17人以下)を置き、このうち国鉄在職の理事を「常務理事」と呼んだ。一般企業の役員会に相当する「理事会」で国鉄内部の重要事項を決めた。

本社は東京都千代田区丸の内一丁目の国鉄本社ビル(現・丸の内オアゾ)に置かれた。旧館は旧鉄道省庁舎で、日本国有鉄道分離直後の運輸省も一時間借りしていた。分割民営化以降、国鉄本社ビルは東日本旅客鉄道株式会社(JR東日本)の本社として、渋谷区代々木に移る1997年まで使用された。

資本金は約89億円。このうち49億円は公共企業体移行時に国有鉄道承継資産総額から国有鉄道事業特別会計の負債を差し引いた残額で、40億円は政府が対日援助見返り資金から出資したものだった。公共企業体化後は政府から追加出資が行われなかったため、設備投資は日本国有鉄道の自己資金と借入金で賄った。

職員数は1980年代までおおむね40万人台で推移したが、合理化により大幅に削減され、民営化直前の1986年(昭和61年)には27万7000人にまで減少した。このうち20万1000人がJRグループの各新会社に移行した。
シンボルマーク

国鉄を表すマークとしては工部省時代からの「工マーク」(1871年1月〈明治3年12月[9]〉制定)、鉄道院時代からの「動輪マーク」(1909年制定)のほか、公募によって1958年に制定された「JNRマーク」があった。このうち「動輪マーク」は蒸気機関車動輪をモチーフにしたもので、鉄道旗を始め制帽の帽章や制服の襟章等にもその意匠が用いられていた。

工マーク

動輪マーク

JNRマーク

鉄道旗

組織運輸支配人時代の日本国有鉄道組織図(1951年9月1日時点)

(特記ある場合を除いて1987年当時)
本社国鉄本社ビル東京都丸の内)。左が新館(1963年竣工)、右が旧鉄道省庁舎の旧館(1937年竣工)で、右端に東京駅場内の一部が見える

理事会の決定に基づいて各地の総局・鉄道管理局を総括的に管理した。本社部局として14局3部5室を置き、ほかに公安本部、総合人事委員会、監査委員会事務局を置いた。また付属機関として鉄道技術研究所(現・鉄道総合技術研究所)、中央鉄道学園、在外事務所(ニューヨークパリ)など9機関を置いた。

1985年3月20日の組織改正で、本社部局の新幹線建設局が建設局に、工作局が車両局に、付属機関の車両設計事務所が車両局(設計課)にそれぞれ統合された。

役員組織本社部局付属機関
理事会総裁室貨物局鉄道技術研究所
総裁経営計画室船舶管理室鉄道労働科学研究所
副総裁地方交通線対策室自動車局中央鉄道学園
技師長技術計画室運転局構造物設計事務所
常務理事広報部車両局中央鉄道病院
監査委員会外務部建設局中央保健管理所
情報システム部施設局在外事務所(ニューヨーク・パリ)
監察局電気局工事積算室
職員局事業局中央情報システム管理センター
経理局公安本部
資材局総合人事委員会
共済事務局監査委員会事務局
旅客局

地方機関詳細は「日本国有鉄道の地方機関」を参照

鉄道管理局および総局が設けられ、地域ブロックの業務を管理し、本社の指示を現業機関に伝えるとともに、輸送関係業務の一部も行った。地方単位で鉄道管理局を総括的に管轄する総局(北海道・九州・四国・新幹線)は、旧支社制度(1957年1月16日-1970年8月14日)を引き継いで、鉄道管理局間にまたがる業務を管理した。

1985年3月20日の組織改正で、駐在理事室(仙台・名古屋・大阪)は廃止、輸送計画室(東北・中部・関西)は仙台名古屋大阪の各鉄道管理局内に企画調整室と輸送計画室を新設して統合した。ほかに首都圏本部、東北・上越新幹線総合指令本部が置かれた。

鉄道管理局、地方部局、工場などは総局、輸送計画室などの下に置かれ、駅、車両基地などの現業機関を管理した。
現業機関

地方機関である鉄道管理局および総局の下で実際に輸送業務に従事する機関で、全国鉄職員のおよそ85%が所属した。分割民営化時点で以下の47の現業機関が設けられ、全国30総局・鉄道管理局に合わせて約6300機関が存在した(1986年12月時点)。それぞれ駅長、区長、室長などをトップとし、その下に中間管理職の首席助役・助役、職種ごとの責任者として主任・職場長を置いた。body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper{margin-top:0.3em}body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper>ul,body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper>ol{margin-top:0}body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper--small-font{font-size:90%}



営業所

操車場

信号場

車掌区

車掌所

連絡船

船舶管理所

船舶施設区

桟橋

船員区

機関区

電車区

気動車区

客車区

客貨車区

貨車区

運転所

運転区

保線区

保線所

機械軌道区

営林区

レールセンター

建築区

機械区

機械所

電力区

変電区

信号通信区

通信区

信号区

電気区

電気所

電気工事区

ヤックス管理区

鉄道公安室

工事区

構造物検査センター

乗車券管理センター

車両所

CTCセンター

管財区

資材センター

経理資材所

要員機動センター

自動車営業所

予算

国鉄の予算案は運輸大臣に提出され、大蔵省との大臣折衝を経て閣議決定後、政府関係機関予算の一つとして国会に提出された。また自己資金、借入金、鉄道債券の発行で調達する「資金計画」を4半期ごとに定め、4半期開始日の20日前までに運輸大臣、大蔵大臣、会計検査院に提出することが義務付けられていた。

収入支出予算は損益勘定、資本勘定、工事勘定、特定債務整理特別勘定の4勘定が設けられた。

損益勘定における収入は、運輸収入、雑収入と、国の一般会計からの助成金受入、収入不足を補填する資本勘定からの受入が充てられた。助成金受入は1960年代まで損益勘定収入の0.1%程度で推移していたが、財政状況の悪化で1970年代以降増加した。また資本勘定からの受入は損益勘定の収入不足拡大に伴って1971年から始まったもので、1970年度までは損益勘定から資本勘定への繰り出し支出を行っていた。日本国有鉄道再建法成立直前の1978年度予算では、助成金受入(工事費補助金、地方交通線特別交付金など)が7%、資本勘定からの受入が15%に達し、損益勘定収入の4分の1近くが助成金と借入金で占められた。

資本勘定の収入は資産充当、鉄道債券及び借入金、国からの貸付金及び補助金が充てられた。このうち鉄道債券及び借入金は、1960年代まで資本勘定収入の50%前後だったが、損益勘定の収入不足補填のために資本勘定から繰出支出を行うようになったことから、借入金を中心に急速に増加。1978年度予算では資本勘定収入の95%を占めた。

工事勘定は鉄道施設の整備工事費や新幹線建設費などを支出するもので、全額を資本勘定からの受入でまかなった。

特定債務整理特別勘定は1976年に新設されたもので、国から償還費用の無利子貸し付けと利子補給を受ける形で棚上げした長期債務の一部(特定債務)を扱った。

歴史
発足の経緯三鷹事件(1949年)。大規模な人員整理が行われる中発生した「三大事件」の一つ

第二次世界大戦後、政府が「国有鉄道事業特別会計」によって運営していた日本の国有鉄道は、インフレーションに加え、復員兵海外引揚者の雇用の受け皿となったため、運営を所管していた運輸省の1948年度国有鉄道事業特別会計は300億円の赤字となり、財政は極度に悪化した。労働争議が頻発する社会情勢の中、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の総司令官であったダグラス・マッカーサーは、国家公務員争議を禁止する一方、国家権力の行使とは関係ない国の専売事業や国有鉄道などの国営事業を行う職員を非公務員化し、公務員より緩和した一定の労働権を許すことで効率的な事業経営を目指す、独立採算制の公共企業体 (Public Corporation) 設置を勧告する書簡を出した。

政府の国有鉄道事業を承継する政府出資の新法人「日本国有鉄道」の設立を定めた「日本国有鉄道法」は、1948年11月30日国会を通過した。日本国有鉄道は1949年4月1日に発足する予定だったが、運輸省鉄道総局側の準備が遅れ、1949年6月1日にずれ込んだ。一般的には国鉄の発足は、行政官庁運営の国営事業から国出資の企業が運営する公共事業に移行しただけに過ぎず、ほとんど注目されなかった。

国鉄は発足直後の7月1日、定員法に基づき職員30700人に対し第一次人員整理を通告。さらに7月12日にも第二次人員整理の通告を行い、合計9万5000人が人員整理の対象となった[10]。それが引き金になったとされた国鉄三大ミステリー事件下山事件松川事件三鷹事件)が発生するなど、労務政策面では大きな混乱が見られた。また経営面では、戦時設計の粗悪な車両や地上施設が原因となった「桜木町事故」などの重大事故が発生したが、一方で特別急行急行の復活など輸送力の回復を強力に推進した。戦時体制のまま承継した地方機関の「鉄道局」「管理部」も再編し、鉄道局を地方支配人に、管理部を鉄道管理局にそれぞれ改組した。

また、1950年11月14日から15日にかけて、連合国軍最高司令官総司令部の指令に基づくレッドパージの通告が職員461人に対して行われた[11]


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