日本国外の日本庭園
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枯山水は dry garden, rock garden, zen garden などと呼ばれる。ポートランド日本庭園(米国)

日本庭園(にほんていえん、: Japanese Garden)は、19世紀以降日本国外にも数多く作られるようになった。日本国内で発展した伝統的な造園思想・造園技法に忠実なものだけでなく、異文化趣味(オリエンタリズム)として「日本」のイメージを投影したものもあり、様態は多様である。本記事では、それらすべてを含めた日本国外の日本庭園(にほんこくがいのにほんていえん)について扱う。
歴史
欧米におけるジャポニズムと日本庭園モネは、日本をイメージして庭を造った。「日本の橋」(太鼓橋)は、しばしば絵の題材になった。ブルックリン植物園日本庭園(1915年撮影)

19世紀後半、ヨーロッパでは日本の浮世絵収集からジャポニスムが始まった。近代の国際関係に参入した日本は、国際博覧会への出品に際して、欧米人が抱く「日本」への憧憬を自己演出することで応えた。博覧会における日本のイメージ戦略は、欧米における日本ブームの大きな契機となった[1]。日本庭園は、その重要な触媒のひとつであった。

1867年パリ万国博覧会は、日本(江戸幕府薩摩藩佐賀藩)が初参加した万博であった。日本はシャムとともに3ヶ国でひとつの展示スペースを割り当てられた。江戸の商人清水卯三郎がパビリオンを茶屋に仕立て、柳橋の芸者に接待をさせて評判を集めた[1]

ヨーロッパにおいて本格的な日本庭園が初めて造営されたのはウィーン万国博覧会(1873年)である[2]。この万博は、明治政府がはじめて参加した万博であった。松尾伊兵衛や山添喜三郎らが日本から派遣されて日本庭園を造営し、白木の鳥居や神殿・神楽堂・太鼓橋などが建設され、池には錦鯉が放たれた。庭園の完成は万博会期の開始以後にずれ込んだが、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と皇后エリーザベトが来場して太鼓橋の渡り初めを行うなど注目を集め、会期後はイギリスの商社が庭園の建物をはじめ木や石をすべて買いあげた[2][3][4]

日本に憧憬を抱いていたクロード・モネは、ジヴェルニーの自宅の庭に池を造り(「睡蓮の庭」)、1895年には日本をイメージした太鼓橋(「日本の橋」Le Pont Japonais)を架けた。このように、欧米では邸宅の庭や公共公園の一角に日本風の庭園が造られるようになった。欧米人の日本庭園への関心に応えるため、ジョサイア・コンドルの“Landscape Gardening in Japan”(1893年)をはじめ、日本庭園に関する書籍も出版された。

福原成雄はタットン・パーク(1913年)について、書籍を通じて日本庭園に関する知識を得たイギリス人が自ら庭園を設計した事例であると考察している[2]。ほかに、現地作庭家による作品にシェーンブルン宮殿日本庭園(1913年)などがある。こうした作品の中には、異文化趣味としての「日本」のイメージを反映したものも多く、鳥居の装飾的な使用や中国との混同など、日本文化に知識を持つものからは違和感をもって迎えられるものもある。

19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパで活動した日本人庭師には、パリ万国博覧会(1889年)に際してフランスに渡った畑和助らがいる。北米では、ブッチャート・ガーデンの造園に携わった岸田伊三郎らが活動した。
「外地」の日本庭園ソウル・昌慶宮の春塘池は、1909年に日本庭園の一部として制作され、1986年に朝鮮の伝統造園様式で改修された。右奥の円形の島は改修時に築造されたものである。

戦前日本の統治下にあった「外地」や影響下の地域で日本庭園が制作され、日本人居留民に憩いを提供した。

朝鮮では、1909年明治42年)にソウルの王宮の一つであった昌慶宮が公共公園「昌慶苑」に改修された際、従来あった水田が拡張されて池が築かれ、日本庭園の造園が行われた。釜山府の龍頭山公園には日本庭園(本多錦吉郎作)が造営された。

台湾では、1917年大正6年)に開園した台南公園(台南市)に日本庭園が造られ、現在まで残っている[5]

樺太では、1906年(明治39年)に豊原市(現:ユジノサハリンスク)に豊原公園が開設された。

満洲では、ハルビンの八站公園(佐藤昌作庭)、新京(現:長春市)の満州国皇帝仮宮殿に造られた築山林泉回遊式庭園(1938年、佐藤昌作庭)[6]などが挙げられる。

第二次世界大戦後、これらの庭園は造園に至る歴史的経緯に対する評価とは無縁でいることはできなかった。満州国仮宮殿は吉林省博物館(中国語版)として利用されているが、かつての日本庭園は荒廃した状況にある[6]。昌慶宮の池は春塘池として現存するが、1986年に朝鮮の伝統造園方式で改修されている。豊原公園はガガーリン公園と改称されているが池は現存し、近年東屋などが建設されて部分的に日本庭園の復興が図られている。
第二次世界大戦後の国際交流と日本庭園

日本の国際社会への復帰ののち、日本人造園家が携わる日本国外での日本庭園の造園も行われるようになった。1950年代から1960年代にかけて森歓之助がインドを中心に、井下清飯田十基戸野琢磨などが北米での活動をはじめ、作品を残した。中根金作などの作庭家も国外に多くの作品を残している。1980年代以降、日本の自治体の国際姉妹都市提携が増加し、交流の一環として提携先に日本庭園を制作することも多い。

北米・南米など規模の大きな日系人コミュニティのある地域では、日系人たちによって日本庭園が築かれている。ブラジルのクリチバ日本庭園(1962年)や、アルゼンチンのブエノスアイレス日本庭園(1967年)は、大規模な都市公園として日本庭園が造られた例であり、寺院を併設するなどコミュニティの中心としての機能も持っている。

日本庭園の造園や維持管理にあたるのは日本人・日系人だけではない。現地の造園家が日本の伝統的造園技法を習得してあたることも多い。
博覧会への出展
第二次世界大戦までパリ万博(1867年)。日本は中国(清)と同じ展示スペースが割り当てられた。セントルイス万国博覧会(1904年)シアトル万国博覧会(1909年)

1867年パリ万博以来、万国博覧会をはじめとする国際イベントへの日本の出展物の目玉の一つであった。博覧会終了後、現在も残されている庭園がある。

パリ万国博覧会 (1867年、フランス・パリ)

ウィーン万国博覧会 (1873年、オーストリア・ウィーン)明治政府の初参加。神社と日本庭園を造営[4]。日本庭園は、茶商松尾儀助設計で出展。

フィラデルフィア万国博覧会 (1876年、米国・フィラデルフィア)日本家屋を造営。跡地には日本庭園が造られ、第二次世界大戦後に松風荘が移築されている。

パリ万国博覧会 (1878年、フランス・パリ)シャン・ド・マルスに茶室・日本家屋・日本庭園を造営[7]


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