日本侠客伝シリーズ
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シリーズの全予告編

『日本侠客伝』シリーズ(にほんきょうかくでんシリーズ)は、高倉健主演で、東映によって制作されたヤクザ映画シリーズ[1]。全11作[1][2]東映京都撮影所製作。『網走番外地』シリーズ、『昭和残侠伝』シリーズと並ぶ高倉健の代表的シリーズである[1]。なお、シリーズとされているが各作品の設定やストーリーに繋がりは無い。
概要

高倉健の人気を決定的なものにした東映任侠映画長期シリーズの草分け的存在[3][4][5]。1964年から1971年にかけて11本が製作され、第1作から第9作までをマキノ雅弘[1]、その後、山下耕作小沢茂弘が1作ずつ監督を担当した[1][3]。また笠原和夫が共作と単独で8作品の脚本を担当している(中心は笠原)[6]東京の下町地方都市を舞台に"いなせ"の世界に生きる堅気の職人や博徒と、彼らを脅かす新興やくざや悪徳業者との対立がドラマの主軸となり、主人公・高倉健はやくざの本道を守る任侠の士として敵対する組織と闘う[1]。ここには、やくざの稼業をやっていても、やくざの生活はするなというマキノ流の任侠道が脈打ち、マキノ演出の妙が遺憾なく発揮されている[3]。シリーズ初期の作品は任侠映画の基本パターンを定着させるとともに[1]、高倉の人気を決定的なものにし、『網走番外地』、『昭和残侠伝』など、後続のヒット・シリーズを生み出す端緒ともなった[3][7]
製作経緯

1963年沢島忠監督、鶴田浩二主演による『人生劇場 飛車角』で、東映東京撮影所(以下、東撮)を任侠路線への転換を図った東撮所長・岡田茂(のち、同社社長)が[4][5][8][9]、翌1964年2月、東映京都撮影所(以下、京撮)所長に復帰[10]、東撮の任侠映画と一線を画す、時代劇の侠客ものを現代劇にアレンジした映画を製作しようと考え[11][12]、京撮に於ける任侠路線第一弾鶴田浩二主演「博徒シリーズ」に次ぐ第二弾として本作を企画した[5][13][14][15]。岡田は『人生劇場 新飛車角』の脚本を書かせた笠原和夫を呼び、仁侠映画の本命とも言うべき企画を考えるよう指示した[16][17][18]。笠原は二種類の企画を提出し、一つは黒澤明監督の『七人の侍』を下敷きにした、ばらばらになっていた七人のやくざが集まって来て、大きな組に押しつぶされようとしている仁義に厚い小さな組を救う話、もう一つは親分を殺され、解散同然に追い込まれた組の組員が我慢に我慢を重ね、ついに決起し強欲なライバルに復讐する忠臣蔵的なストーリーだった[16]。岡田は迷うことなく忠臣蔵を選び、これが『日本侠客伝』となる[16][19][20][21]。笠原は『七人の侍』の方をしたかったが、これは1966年に『博徒七人』『お尋ね者七人』として世に出た[19]。『日本侠客伝』の最初のタイトルは『大侠客』であった[16]。『日本侠客伝』という題名は俊藤が付けたと著書で書いているが[22]、岡田が前年『人生劇場 飛車角』二本の後、石井輝男に『昭和侠客伝』を撮らせていて、岡田が題名を先に付け「昭和侠客伝、ええやろう」と言っていたという[23]。『昭和侠客伝』、『日本侠客伝』、似ている。

京撮所長に再び戻った岡田は不振の時代劇を横目に、仁侠映画路線への転換を目指し仁侠映画を興行の重要週間に配していく[15][24][25]。1964年7月鶴田浩二主演の『博徒』に続いて8月に公開されたのが本作であった[15]。岡田は仁侠路線となっても、沢島忠中村錦之助を大黒柱に据えるつもりで『日本侠客伝』も、錦之助主演で企画を進めていた[1][7][16][26]。ところがこの二人は任侠映画があまり好きではなかった[26][27]。錦之助は田坂具隆監督の『鮫』の撮影が長引いていると話し、『日本侠客伝』には出演する気がないと判断した岡田は『人生劇場 飛車角』で宮川役を好演した高倉健を主役に抜擢した[16][28]。岡田は高倉の育ての親であった[29][30][31]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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