日本人留学生射殺事件
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日本人留学生射殺事件(にほんじんりゅうがくせいしゃさつじけん)は、1992年10月17日アメリカ合衆国ルイジアナ州バトンルージュ市の郊外で日本人留学生が射殺された事件である[1]
事件発生まで

当時高校2年生だった16歳の日本人留学生(以下「被害者」と呼ぶ)は、英語好きの母親の影響もあって幼い頃からアメリカに憧れを持ち、愛知県立旭丘高等学校に通っていた2年生の夏、AFS (交換留学)を通じてアメリカ合衆国ルイジアナ州バトンルージュを訪れ、ホームステイ先である大学教授の父親、医師の母親、同年代の高校生の長男(以下、"A"と呼ぶ)の3人一家の元で留学生活をしていた。

1992年10月17日夜、被害者はAの運転する車に乗り2人でハロウィンパーティーへと出掛けた。この際被害者は映画『サタデー・ナイト・フィーバー』で主役を務めたジョン・トラボルタの衣装を模して借り物のタキシード、黒のパンツ、シワのついた白いシャツを着ていた。同行していたAは事件の数日前にプールへ飛び込んだ際に首を痛めギプス包帯を巻いていた事から、ショーツとテニスシューズを組み合わせ、頭や手足に包帯等を巻きつける事で交通事故の被害者を模した格好に仮装していた[2]。しかしAが会場周辺の地理に不慣れであったことから訪問先の家を間違え、ロドニー・ピアーズ(当時30歳)一家の住む家へと辿り着いた。2人はそれに気づかないまま玄関のベルを鳴らし、勝手口で応対したピアーズの妻は玄関先の2人を見つけるとすぐさまドアを閉め、夫に銃を持ってくるよう要求した[2][3]。それに応じてピアーズは寝室からレーザースコープ付きのスミス&ウェッソン社製.44マグナム拳銃を持ち出し勝手口へと向かい、2人に向け構え、「フリーズ(Freeze 日本語で「動くな」の意)」と警告した。だが被害者はピアーズに対し「パーティーに来たんです(We're here for the party.)」と説明しながら車庫の中に入り勝手口に近づいた。この行為からAはフリーズを「プリーズ(Please 日本語で「こっちへ来い」という意で使われる時がある)」と聞き間違えたともみられる[2]。ピアーズは発砲し、弾丸は被害者の左肺を貫いた。救急車が呼ばれたが、被害者は出血多量により搬送中に死亡した[4][5][2]
刑事裁判へ

ピアーズは、日本の刑法では傷害致死罪に相当する「計画性のない殺人罪」で起訴されたが、同州の東バトンルージュ郡地方裁判所陪審員は12名(白人10名、黒人2名)全員一致で無罪の評決を下した。その際ピアーズ側は以下の通りに主張した。

ピアーズが警告したにもかかわらず、被害者が立ち止まらずに至近距離まで歩み続けたため、脅威に感じ発砲した。

被害者が手に持っていたカメラを凶器と誤認してしまった。

評決の理由は裁判において明らかにされていない。ルイジアナ州の法律では、屋内への侵入者については発砲が容認されているが、撃たれたとき被害者は敷地内に踏み込んではいたものの、屋内へ立ち入ったわけではない。通常、発砲は認められていなかったにもかかわらず無罪評決が出たが、正当防衛が認められたものか、傷害致死罪の犯罪構成要素を満たしていないと陪審員が判断した結果なのかは不明である[4]。ただし日本のメディアは、発砲が正当防衛と認められて無罪となったことや、被害者が警告を理解できなかったなどの文化の違いを原因として報じる傾向があった。ピアーズは刑事裁判後『ニューヨーク・タイムズ』の記者に対し「もう二度と銃を手にすることはないだろう」と語ったことがある[6]が、その後銃を手放したかどうかは不明である。
民事裁判へ

この後行われた、遺族が起こした損害賠償を求める民事裁判は、刑事裁判とは正反対の結果となった。

まず、原告側のムーア弁護士は裁判の公平性を確保すべく、感情で判決が左右されることもある陪審員裁判ではなく、証拠に基づいて判決を行う判事裁判にすることを狙った。アメリカでは陪審員裁判にする場合、原告・被告のどちらかによる事前の申請と費用負担が必要であり、それがない場合は自動的に判事裁判になる。ムーア弁護士はそれを逆手に取り、陪審員裁判の準備をしているように見せかけて期日までに費用を払い込まなかったため、被告側弁護士が気がつくのが遅れ、判事裁判となった。

まず、ムーア弁護士は、ピアーズと被害者の距離には矛盾があると指摘した。刑事裁判におけるピアーズ側の弁護士は2人の距離が90cmから150cmしかなかったと主張したが、ピアーズの腕の長さと全長21cmのマグナムを考えると2人の距離はそれに加えてさらに1mはあったはずであり、ムーア弁護士が銃の専門家に確認すると、歩いてくる人間を至近距離で撃った場合、撃たれた人間は歩く勢いで1mほど前に倒れ込むと証言した。

刑事裁判において専門家が出したという90cmから150cmという数値は、銃口から被害者までの距離であり、別の専門家の鑑定によると、2人の距離は190cmから250cm離れていた。そのため、被害者は屋内へ立ち入ったわけでもなく、玄関からも数メートル離れていたこととなるため、後ろに下がりドアを閉めたり、応対せずに警察を呼ぶなどの選択肢もあったのに、ピアーズは威嚇射撃ではなくいきなり被害者の胸に向けて発砲したこととなる。刑事裁判で弁護側はこの事実を伏せ、ピアーズと被害者の距離が近かったためにやむなく発砲したと主張し、陪審員たちを無罪評決へ導いたことが明らかとなった。 警告したにもかかわらず被害者が近距離に接近してきたとの主張については、法医学的証拠により、被害者はゆっくりとしか動いていなかったことが証明されている[7]。しかも、刑事裁判でピアーズ側は被害者が手に持っていたカメラを凶器と誤認したと主張していたが、民事裁判ではカメラには気づいていなかった、すなわち手ぶらに見えたと証言を翻した。

他にも、身長170cm、体重61kgの被害者に対し、身長188cm、体重84kgのピアーズに体格差による恐怖心は起きにくかったことや、をも撃ち殺せるマグナムを構えておきながら、恐怖を感じ、威嚇射撃や足などへの射撃もせず、いきなり急所へ向けて発砲したのは不自然であり、殺意があった証拠だとムーア弁護士は主張した。また、大口径である.44マグナムの拳銃は家にあった6丁の銃の一つだが、玄関にあったライフル銃ではなく、わざわざ寝室まで取りに行き、持ち出しに時間もかかるクローゼットの中から取り出したことを指摘した。

また、ムーア弁護士は新たな事実として、ピアーズは当時家に6丁も銃を持つガンマニア[注釈 1]鹿狩りが趣味と公言し、銃愛好家であることを提示した。その上、当日はウイスキー・コークを飲んでいたため、判断力が低下していたこと、妻の前夫とトラブルを起こしており、事件の前に前夫に対して「次に来た時は殺す」などと言っていたなどの事実を明らかにした。

そのうえ、ピアーズ夫妻は、警察からの聴取や裁判で矛盾する証言を行なっていた。例えば、ピアーズは当初、過去2年間に銃を使用したことは一度もないと証言していたが、実際は2年間に200回以上もの射撃をしていた。

これらの事実を踏まえ、正当防衛ではなく、殺意を持って射殺したとして65万3000ドル(およそ7000万円)を支払うよう命令する判決が出された。翌年、同州高等裁が控訴を棄却したため判決が確定した[8][5]
その後

ロドニー・ピアーズおよびその妻や親は、裁判所に命じられた賠償金65万3000ドルのうち、2022年現在に至るまでその一切を支払っていない[5]。服部夫妻側に支払われたのは、ピアーズが自宅にかけていた保険によって支払われた10万ドルのみである。

ピアーズはこの事件により職場(ウイン・ディキシー・スーパーマーケット(英語版))を解雇され[9]、賠償金を一切支払わないまま自己破産した。その後ピアーズ夫妻は街を出ていき、現在の消息は不明である。

被害者の両親は交換留学生と友人たちの協力で「アメリカの家庭からの銃の撤去を求める請願書」に署名を求める活動を開始、1年余で170万人分を超える署名を集めた。1993年11月、当時のアメリカ大統領ビル・クリントンに署名を届けるために面会した。服部夫妻がワシントンD.C.に滞在していた間に、アメリカにおける銃規制の重要法案であったブレイディ法が可決された[10]

日米間の文化の違いを乗り越え相互理解を促進することを目的に、被害者の両親は生命保険の支払い金を原資として、AFS留学生として日本に滞在するアメリカの高校生に毎年1人ずつ奨学金を提供する「YOSHI基金」を1993年6月に設立した。AFSが翌年から毎年実行している他、各種行事[11]や活動内容を記事にして公開している[12]。被害者の遺族はまた、支払われた賠償金の10万ドルのうち、弁護士報酬および裁判費用を除いた4万5000ドルを原資として、「Yoshi's Gift」を設立し、アメリカ国内の銃規制団体を援助している[13]


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