日本三大都市(にほんさんだいとし、にっぽんさんだいとし)とは、日本の都市の中で代表的な3つの大都市の総称。以下、三大都市と略す。 現代では、一般に東京都区部(旧東京市)、大阪府大阪市、愛知県名古屋市を指す[1]。三大都市を合わせた東名阪(とうめいはん)という略称も用いられる。「三大都市圏」も参照 1908年(明治41年)4月1日には、三市(東京市、大阪市、京都市)と名古屋市、計4市に大都市制度が導入されることとなった[2]。大正時代になると、開港五港のうちの神戸市や横浜市も京都市と人口で遜色なくなり、「三市」という枠の意味がなくなった。そのため、1922年(大正11年)3月30日には「六大都市行政監督ニ関スル法律」が施行され、『東京市、京都市、大阪市、横濱市、神戸市及名古屋市』が六大都市とされた(記載順は上記法律の原文通り)。国勢調査が開始した1920年(大正9年)10月1日には、神戸市の人口が京都市の人口を上回り、人口順は、東京市・大阪市・神戸市・京都市・名古屋市・横浜市となった。 1923年(大正12年)9月1日に関東地震(関東大震災)が発生すると、大きな被害を受けた東京市と横浜市の人口が減少し、移住者の多かった大阪市と名古屋市の人口が急増した。震災によって被災した東京市の人口は減ったが、震災の影響が少なかった隣接郡の人口は急増した。すなわち、東京では「天災によるドーナツ化現象」が発生した。 1925年(大正14年)4月1日には大阪市が隣接2郡45町村を編入して市域を3倍以上に拡大し (57.05 km2 → 185.13 km2)、大大阪時代が幕を明けた。合併後の大阪市の面積は東京市の約2.3倍となり、同年の国勢調査人口では大阪市(211万4804人)が東京市(199万5567人)を上回り、六大都市の人口順は大阪市・東京市・名古屋市・京都市・神戸市・横浜市となった。 1927年(昭和2年)4月1日には横浜市、1931年(昭和6年)9月1日には神戸市にも区制が施行され、六大都市とされた市の全てに大都市制度が導入された。1932年(昭和7年)10月1日、東京市は隣接5郡82町村を編入して領域を拡大し(81.24 km2 → 550.85 km2)、人口で再び大阪市を超え、大東京市の時代を迎えた。合併後の東京市の面積は大阪市の約3倍となった。 1943年(昭和18年)7月1日には、東京都制が施行され、東京府と東京市が廃止されて東京都が置かれた(これ以降、東京都内に置かれた区の範囲を東京都区部と記載する)。これにより「六大都市」から東京市を除いた5都市が「五大都市」と呼ばれるようになった。なお、六大都市の呼称はこの後も用いられた[3][4]。 この時期は各地に大都市が育ち、また都市の編纂が相次いだ為、三大都市の定義が困難である。ただし、関東大震災から大東京市の成立までの間の人口上位3都市は、それぞれの順位が入れ替わることはあったが、大阪市・東京市→東京都区部・名古屋市であった。 戦中に大規模な空襲を受けなかった京都市を含め、六大都市は全て人口が減少した[5]。その結果、戦後復興期(戦後占領期)の人口上位3都市は東京都区部・大阪市・京都市となった。復興が進むにつれて、東京都区部・大阪市・名古屋市が三大都市となった。 計画的な地域開発を目的として首都圏整備法(1956年制定)、近畿圏整備法(1963年制定)、中部圏開発整備法(1966年制定)が公布され三大都市を中心とした三大都市圏が定義された。都心の地価が高騰したため東京都区部や大阪市の人口は一時減少し、名古屋市の人口も停滞。その代わりに郊外に衛星都市が形成され都市圏そのものは肥大化していった。そうした中で1970年代に横浜市の人口が大阪市や名古屋市を超えた(都道府県庁所在地と政令指定都市の人口順位を参照)。 そのため市区の人口と経済活動の規模が一致するとは限らなくなった。 1798年:大坂・四天王寺界隈(摂津名勝図解)1830年:江戸の日本橋よりみる富士山(葛飾北斎「富嶽三十六景」)1832年:京の三条大橋(歌川広重「東海道五十三次」) 江戸時代の三大都市は、大坂・京・江戸であり、総じて「三都」と呼ばれていた。
概要
六大都市(明治末 - 大正期)
関東大震災後
六大都市への大都市制度導入(昭和初期)
戦後復興期
高度経済成長期(昭和中期)
三都(江戸時代)
詳細は「三都」を参照
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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