日本万国博覧会
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この項目では、1970年に大阪府吹田市で開催された万国博覧会(大阪万博)について説明しています。

1940年に東京市で開催される予定であった万博については「紀元2600年記念日本万国博覧会」をご覧ください。

2005年に愛知県で開催された国際博覧会(愛・地球博)については「2005年日本国際博覧会」をご覧ください。

2025年に大阪市で開催予定の国際博覧会(大阪・関西万博)については「2025年日本国際博覧会」をご覧ください。

日本万国博覧会
Japan World Exposition
Osaka 1970
開催期間中の会場風景。中央に太陽の塔を望む。1970年4月撮影。
イベントの種類国際博覧会(旧・一般博[注釈 1]
通称・略称大阪万博、70年万博、日本万国博、EXPO'70
正式名称日本万国博覧会
開催時期1970年3月15日 - 9月13日(6か月、183日間)
(1965年4月22日に立候補[注釈 2]、同年9月14日に選出)
会場 日本大阪府吹田市万国博会場(千里丘陵・現万博記念公園
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度48分34.7秒 東経135度31分56.3秒 / 北緯34.809639度 東経135.532306度 / 34.809639; 135.532306座標: 北緯34度48分34.7秒 東経135度31分56.3秒 / 北緯34.809639度 東経135.532306度 / 34.809639; 135.532306
主催財団法人 日本万国博覧会協会[注釈 3]
プロデューサー丹下健三
来場者数6421万8770人[2]
最寄駅万国博中央口駅、万国博西口駅
詳しくは大阪万博の交通を参照
備考:
標語は「人類の進歩と調和」
参加国数は77か国[3][注釈 4]・4国際機関[4]・1政庁・9州市[4]
参加団体数は1040(日本国内)[5]・2(外国企業)[4]
前回モントリオール万国博覧会
次回セビリア万国博覧会
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『シンボルマーク』
作者大高猛
製作年1966年採用

日本万国博覧会(にっぽんばんこくはくらんかい、: Japan World Exposition Osaka 1970, Expo'70)は、1970年昭和45年)3月15日から9月13日までの183日間、大阪府吹田市千里丘陵[6][注釈 5]で開催された国際博覧会

アジア初かつ日本で最初の国際博覧会(General category:一般博、現・登録博)であり、当時史上最大の規模を誇った。略称は開催地・開催年から大阪万博あるいは70年万博、一般的な英語表記としてはEXPO'70が用いられた。また、日本国内において単に万博あるいは万国博とも略される(本項の記述にも用いる)。
概要開催期間中の会場風景。右前方に太陽の塔が垣間見られる(1970年4月撮影)。

「人類の進歩と調和」をテーマに掲げ、77か国が参加し、終戦25周年記念として、戦後高度経済成長を成し遂げアメリカに次ぐ世界第2位の経済大国となった日本の象徴的な意義を持つイベントとして開催された。主催は財団法人 日本万国博覧会協会。博覧会の名誉総裁は当時の皇太子明仁親王、名誉会長は当時の内閣総理大臣佐藤栄作。コンセプトは「規格大量生産型の近代社会」[7]。その日本においては1964年東京オリンピック以来の国家プロジェクトであり、多くの企業研究者建築家芸術家らがパビリオン建設や映像・音響などのイベント制作・展示物制作に起用された。大阪市など会場周辺市街地では開催へ向けて道路鉄道地下鉄の建設などといった大規模開発・整備がなされ、日本政府の万国博関連事業として6500億円あまりが支出された[8]。一方、第二次世界大戦以来の規模となる芸術家らの国家イベントへの動員は文化・芸術界内部で批判があったほか、同じく1970年に予定されていた日米安保条約改定に関する議論や反対運動(70年安保闘争)を大イベントで国民の目からそらすものだとして、大学生らによる反対運動も行われた。

常識を覆すような超巨大プロジェクトゆえに日本全国で物議を醸したが、世界各国の新技術や文化を結集し、一時の未来世界を作り上げたことで6422万人が来場し、大成功を収めた。本博覧会では、サインシステム動く歩道モノレールリニアモーターカー電気自転車電気自動車テレビ電話携帯電話缶コーヒーファミリーレストランケンタッキーフライドチキンなど、21世紀の現代社会で普及している製品やサービスが初めて登場した。本博覧会を機に広く有用性が認知され、直後に日常生活にも広がっていった製品は少なくない。しかし、技術的な難易度が高く、現代でも実用化に至っていない製品もある。レトロフューチャー的な施設デザインは、清潔感があることから、のちの展示会などでも大きな影響を与えた。閉会後半世紀経つ今なおイベントの知名度は高く、高度経済成長期の日本を代表する出来事として取り上げられることが多い。

テーマ館の太陽の塔やアメリカ館・ソ連館などの人気パビリオンでは、数時間待ちの行列ができるなどして大変混雑した。特にアポロ12号が持ち帰った「月の石[9] を展示したアメリカ館の行列は延々と続き、途中であきらめて他の館へ行く人も多かった。その異常な混雑ぶりから、テーマをもじって「人類の辛抱と長蛇」や「残酷博」と揶揄されたことがある[10][11]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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