日本レコード大賞
THE JAPAN RECORD AWARD
発表会会場の新国立劇場
受賞対象優れた楽曲・歌手
会場新国立劇場・中劇場(2004年より)
国 日本
主催日本作曲家協会
初回1959年12月27日
最新回2023年12月30日
公式サイトhttps://jacompa.or.jp/record/
輝く!日本レコード大賞
ジャンル音楽番組 / 特別番組
エンディングその年の大賞受賞曲
製作
制作TBSテレビ
放送
音声形式ステレオ放送(1978年より)
放送国・地域 日本
放送期間1959年12月27日 -
回数65
公式サイト
特記事項:
詳細に関しては#放送を参照
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輝く!日本レコード大賞
放送局TBSラジオ
特記事項:
放送回数・時間・内容などはテレビと同一
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『日本レコード大賞』(にほんレコードたいしょう、英: THE JAPAN RECORD AWARDS)は、スポーツ紙を含む各新聞社の記者が中心となって決定する音楽に関する賞である[注 1]。
略称は「レコ大」(レコたい)。主催は公益社団法人日本作曲家協会、後援はTBSである。TBSテレビ・TBSラジオとその系列局が放送し、番組名は『輝く!日本レコード大賞』(かがやく にほんレコードたいしょう)[注 2]。 1959年に創設され[注 3]、1970年代から1980年代にかけて、テレビにおける歌番組の隆盛と共に最盛期を迎えた。しかし、レコード会社や事務所の力関係により受賞者が決まっているとの指摘もあり[1][2]、また賞レースに左右されない音楽活動を希望することなどを理由に、受賞そのものを辞退する有力アーティストが1990年代から増えるようになった(福山雅治、B'z、Mr.Children、ジャニーズ事務所所属歌手など)。これにより賞の権威は大きく低下した[2]。また、第36回(1994年)には大賞を受賞した歌手がミュージック・ビデオの撮影で渡豪していたため、授賞式に出席しないという異例の事態となった(2020年現在に至るまで、大賞を受賞した歌手が授賞式に出席しなかった唯一の例となっている)。 第56回(2014年)を例として掲載する(計23人) 戦後の日本の音楽界においては、ジャズ、ロカビリーなど米国由来の新しいジャンルが流れ込んできており、若者世代から熱狂的な支持を受けていた。一方で音楽界の主流を占めているのは戦前から続く歌謡曲で、大手のレコード会社が専属の作家に売れ筋の曲を書かせ、発売するという寡占状態が成立していた。結果、若者世代がコンサートを通じて新音楽を、年配世代がレコードを通じて歌謡曲をそれぞれ支持するという世代間の空白が生じていた[3]。 1959年、古賀政男、服部良一らの主導で、レコード会社所属の作曲家による親睦団体『日本作曲家協会』が設立される。古賀、服部らは、世代間のギャップを超えた「新しい日本の歌」を生み出すべく、ジャンルを問わずにその年の日本を代表する歌を選出するグランプリを開催することを目指した。範としたのは、前年に米国で始まったグラミー賞であった[4]。 しかし古賀らの動きは音楽界の主流派の非協力という形で抵抗を受ける。共催を申し込んだ社団法人日本蓄音機レコード文化協会(現・日本レコード協会)には断られ、レコード会社はビクター以外の協力は得られなかった。大手新聞社の音楽記者会は事態を警戒して初年度の審査への参加を留保して、テレビ各社はラジオ東京テレビ(現・TBS)のみが賛意を示した(これが縁で、レコード大賞の放送はTBSで行われている)。運営委員長を引き受けた古賀は参加者の不安を抑えるために私財を投げ打ってでも必ず実施すると宣言し、実際に赤字分を個人負担した[5]。 古賀の自腹によってどうにか開催された第1回レコード大賞で大賞を受賞したのは、ロカビリー系の「黒い花びら」、歌手は本作でデビューの水原弘、作詞は放送作家の永六輔、作曲はジャズ奏者として一世を風靡した中村八大という、主流の歌謡曲とはかけ離れた組み合わせであった。後に作詞家として大成した永は後年、第1回の大賞を権威ある作品ではなく全く無名人の作品にしたことを、「審査員の良識だったと思う」と述懐している[6]。 以降も新ジャンルからの受賞が相次ぎ、受賞曲がヒット、受賞者が売れっ子のヒットメーカーになるにしたがって、日本の音楽界のボーダーレス化が進んでゆく。古賀らが立ち向かったレコード会社の専属作家制度は、1970年ごろには姿を消した[7]。初めの数年は賞自体の知名度が低く[注 5]、放送時間は年末の昼間、会場も神田共立講堂など小規模の会場であった。 1969年、第11回から番組の構成を一新する。大晦日の『NHK紅白歌合戦』が始まる前の19時から21時に本選『輝く!日本レコード大賞』を開催・生中継する様になり、カラーでの全国放送を開始。更に会場を帝国劇場に移し、総合司会に元NHKアナウンサーの高橋圭三を起用。格調高く、より緊張感の漂う雰囲気に様変わりした。 三賞(最優秀新人賞・最優秀歌唱賞・大賞)ノミネートの作詞者・作曲者・編曲者・歌唱者・レコード会社代表、所属プロダクション代表ら、および既に受賞が決定している歌手(大衆賞受賞者・企画賞受賞者・特別賞受賞者など)は楽屋ではなく、観客と共に客席で進行を見守っていた。三賞ノミネートの歌手がステージに現れる際は、奈落から迫りによって登場し、作品紹介と歌唱が行われた。 オープニング演奏・歌手の伴奏・発表時のファンファーレ・受賞時のBGM・クロージング演奏にはステージ後方に控える総勢72?73名のオーケストラと合唱団が担当。その内訳は、ビッグバンド(サクソフォーン5名・トランペット4名・トロンボーン4名・ピアノ・エレキベース・ドラムス各1名:番組後半開始前にもうひとつのビッグバンドと交代)とリズム楽器(エレキギター2名・ラテンパーカッション1名)に加え、当時の音楽番組の常識ではあり得ない規模のストリング・オーケストラ(弦楽合奏団:昭和40年代では第一ヴァイオリン8名・第二ヴァイオリン6名・ヴィオラ4名・チェロ4名の計22名で、これは室内管弦楽団あるいは小規模の交響楽団に匹敵する)とハープの大々的使用、原曲の特徴的なフレーズを強調・装飾的に彩る各種管打楽器(フルート、オーボエ、ホルン、ティンパニ、グロッケンシュピール、チャイムなど)、さらに混声合唱団(ソプラノ6名・アルト6名・テノール6名・バス6名の計24名)[9]を擁する絢爛豪華なサウンドで、クラシックの指揮者のような気品あるタクトさばきが定評の長洲忠彦が永らく指揮者を務めた。
概要
審査委員詳細は「公式サイト」を参照
審査委員長:川崎浩(毎日新聞)
審査委員兼幹事(2人):サンケイスポーツ、日刊スポーツ
審査委員
新聞社社員(11人):産経新聞、時事通信、スポーツニッポン、デイリースポーツ、東京新聞、東京スポーツ、東京中日スポーツ、日本経済新聞、報知新聞、夕刊フジ、読売新聞
TBS系列局社員[注 4](4人):北海道放送、CBCテレビ、毎日放送、RKB毎日放送
音楽評論家・音楽プロデューサー(5人):酒井政利、田家秀樹、反畑誠一、富澤一誠、湯浅明
沿革
賞の創設
草創期
黄金期
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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