日本プロレス協会
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新日本プロレス」、「全日本プロレス」、「大日本プロレス」、「ジャパンプロレス」、あるいは「日本女子プロレス」とは異なります。

日本プロレス(にほんプロレス、にっぽんプロレス)は、かつて存在した日本プロレス団体。日本プロレス界の祖である力道山が設立。

興行会社としての日本プロレス興業株式会社、業界組織としての日本プロレス協会、ライセンス発行や選手権試合の管理、認定を行う日本プロレスコミッションからなっていた。
概要

大相撲関脇からプロレスラーに転向した力道山1953年、興行師で興行界のドンと呼ばれた永田貞雄と、関東屈指の顔役である新田新作(生井一家貸元で関東国粋会副幹事長だった鈴木栄太郎の子分。戦後に足を洗い新田建設経営者。明治座の社長で経済事件の調停にも活躍)の物心双方の援助、後見によって設立した。この際、スポンサーとして経済界からは萩原吉太郎ら、児玉誉士夫と親しい企業人グループが後援をしている。テレビ中継は、日本テレビとNET(現:テレビ朝日)で定期中継されていたほか、NHK総合テレビでも力道山時代の初期に不定期放送されていた。1973年に興行団体としての機能を停止した。

「日本プロレス協会」及び「日本プロレス興業株式会社」の上に戴いていた「日本プロレスリングコミッショナー」には、自民党副総裁の大野伴睦川島正次郎らがいた[1][注釈 1]。このコミッショナーは「日本プロレス界全体の」コミッショナーで、東京プロレスなどからも認可申請が出されているが、実際に認可団体とされたのは日本プロレスだけであった。なお、のちに首相となる中曽根康弘とは、力道山が持つリキアパートの一室を事務所とするほどの関係だった[2]

一時期は日本で唯一とも言えるプロレス団体であり、プロレス界に与えた影響は計り知れない。力道山以後のプロレス界において双璧をなすことになるジャイアント馬場(後に全日本プロレスを創立[3])とアントニオ猪木(後に新日本プロレスを創立)も、1960年9月30日に日本プロレスで同時デビューしている。また、後に国際プロレスを創立した吉原功も日本プロレスの元プロレスラーだった[注釈 2]
歴史

1953年7月30日東京日本橋浪花町に設立された「日本プロレス協会」が母体となる。
力道山時代力道山

大相撲廃業後、力道山はアメリカへ渡り、帰国後プロレス興行を始める。木村政彦と組みシャープ兄弟と対戦した試合はテレビを通じて全国に中継され話題を呼ぶ。当時の日本には木村政彦の「国際プロレス団」や山口利夫の「全日本プロレス協会」などが存在したが、この2名を直接対決で下した力道山が著名となると、競合団体は相次いで消滅。日本プロレスがほぼ唯一と言っていいプロレス団体となった。

1957年には世界ヘビー級王者であった"鉄人"ルー・テーズの招聘に成功。その翌年に力道山は渡米してテーズとの再戦に挑み、インターナショナル・ヘビー級王座を獲得。日本プロレスにおける看板タイトルとして、防衛戦を行った。テーズの招聘後、一時期人気が下火になるものの、1959年にワールドリーグ戦を開催。グレート東郷をブッカーとして迎え、世界からチャンピオンクラスの大物選手を招聘して興行は成功、崩壊前年まで『春の看板イベント』として14回行われた。1961年には常設会場であるリキ・スポーツパレスが完成している。

1963年12月15日に力道山が死去。
豊登時代豊登

力道山の死後、グレート東郷はブッキング料を巡る対立でブッカーを解任され、ミスター・モトが新しいブッカーとなる[4]1964年1月10日には、力道山未亡人であった百田(田中)敬子が社長に就任する[5]。しかし同時期に豊登遠藤幸吉吉村道明芳の里の4人が「日本プロ・レスリング興業株式会社」を別途設立し、興行収入や日本テレビからの放映権収入は4人が設立した「日本プロ・レスリング興業株式会社」が手に入れることとなったと同時に、旧来の「日本プロレスリング興業株式会社」は力道山が残した膨大な負債を背負うことになった[5][注釈 3]

1964年までの「日本プロレス協会」役員の構成は、会長の児玉誉士夫、副会長の田岡一雄(3代目山口組組長)、町井久之東声会会長)となっており[5]、このため浜松より西の興行は田岡、関東は町井、東北以北は児玉の盟友である岡村吾一の影響下にあったとされる[5]1965年に入ると警察勢力はこの陣容に対して日本プロレス協会の解体を迫ることになり、これを受けて豊登ら4人は1965年2月22日に記者会見を行い、役員を刷新することを発表した。これにより児玉・田岡・町井の3人は役員を退任し、協会長には元衆議院議員平井義一が就任する[5]。これとほぼ同じ時期に、日本プロレスリングコミッション事務局長だった工藤雷介からの要請で、同コミッション事務局次長となったのが門茂男である。

社長となった豊登は1964年から1965年にかけてエースとなる。同時期には斎藤昌典(マサ斎藤)杉山恒治(サンダー杉山)草津正武(草津清正、グレート草津)など、大物アマチュアスポーツ選手も日プロに入団した[6]

大の博打好きの豊登は公金を横領しており、競馬競輪などギャンブルへ流用するという放漫経営が発覚し、1966年1月に尿管結石の悪化を名目に退職(事実上の追放処分)となる[7]。豊登は猪木を引き抜いて東京プロレスを設立した。東京プロレス旗揚発表直後に日本プロレスは妨害工作を開始して東京プロレスを短期間で崩壊に追い込むため、当時使用料が高額だった日本武道館でのプロレス初興行を開催し、武道館大会の目玉にフリッツ・フォン・エリックを招聘した[8]。東京プロレスは、日本プロレスによる妨害工作・テレビ中継が無いゆえの興行不振に加え、そこでも公金を私的に流用するなど経営が立ち行かず短期間で崩壊し、猪木は日プロに復帰。また永源勝(永源遙)などの一部選手は日プロへ移籍した。

また、取締役営業部長だった吉原功も、経営路線の対立[注釈 4]が元で1966年10月に同社を退社して国際プロレスを設立し、1967年1月に旗揚げ戦が行われた。同じ日本プロレス退団組であるヒロ・マツダマティ鈴木、杉山恒治、草津正武、阿部修、レフェリーのマンモス鈴木、レフェリー兼リングアナウンサーの竹下民夫も加わり、豊登や木村政雄(ラッシャー木村)など一部の東京プロレス組も合流した。


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