日本ハンドボールリーグ
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日本ハンドボールリーグ
Japan Handball League
今シーズン・大会:
第48回日本ハンドボールリーグ
競技ハンドボール
創立1976年
代表中村和哉
開始年1976年
参加チーム男子 13
女子 11
日本
連盟日本ハンドボール協会
前回優勝【男子】
豊田合成(3回目)
【女子】
北國銀行(10回目)
最多優勝【男子】
大同特殊鋼
(18回)
【女子】
オムロン
(17回)
テレビ局#テレビ放送を参照
スポンサー#スポンサーを参照
公式サイトhttps://japanhandballleague.jp/

日本ハンドボールリーグ(にほんハンドボールリーグ、: Japan Handball League)は、日本トップリーグ連携機構に加盟する一般社団法人日本ハンドボールリーグ機構が主催する日本のハンドボールリーグである。1976年に創設された。第48回となる2023-24年シーズンは、男子13チーム、女子11チームでともに1部のみのリーグで構成される(2部リーグに相当する下位リーグはチャレンジ・ディビジョンだが、昇降格制度はない)。
歴史
日本リーグ開幕 1970年代

全日本実業団ハンドボール選手権1974年から開催地を転々するサーキット方式の「日本実業団リーグ」として開催されていたが、1975年に全日本実業団ハンドボール連盟が「日本リーグ」への改称を検討[1]。同年10月には準備委員会(日本ハンドボール協会・全日本実業団ハンドボール連盟)が開かれ、全日本実連側が男女各8チームの春・秋2回戦総当たりで行うことを説明。日本協会・全日本実連の共催として全国代議員会へ提案することが決まった[2]。しかし、11月の日本協会月例常務理事会で荒川清美理事長が「日本実業団リーグを日本リーグと改称するだけでは、前向きの検討にはならない」と不満を表し、日本協会側で再検討されることになった[3]。その後12月の月例常務理事会で「日本リーグ基本構想」を全国代議員会や理事会へ提案することが決まった。「日本リーグ」は日本協会の新事業として発足することも決定。加盟チームについては日本協会が定めるランキングによって候補をノミネート(男子77チーム、女子70チーム。いずれも延べ数)し、加盟意思のあるチームを最高8チームまで選出。ノミネートは荒川理事長の「日本リーグは全国関係者の支持によって実施されなければならない」という考えによって、実業団以外にも学生チームや教職員チームも候補となった[4]が、学生勢は「学業との両立」や「財政面」などの理由から全校不参加となった[5]

1976年3月から加盟候補チームの手続きが行われ、同年9月4日の開幕予定や1回総当たりで行うことが決定[5]4月15日に加盟申し込みが締め切られ、男子10チーム、女子9チームがエントリーした。そのうち男子は7チーム(大同製鋼湧永薬品本田技研鈴鹿、大阪イーグルス、三景、大崎電気、三陽商会)、女子も7チーム(日本ビクター、立石電機ブラザー工業、東京重機工業、大崎電気、東北ムネカタ、日立栃木)の加盟が決定[6]。残りの1枠は男子が3チーム(日新製鋼呉、トヨタ車体、神戸製鋼)、女子は2チーム(ジャスコ、大和銀行)で第8チーム決定戦が行われ[7]、男子は日新製鋼呉[8]、女子はジャスコが日本リーグ入りを決めた[9]。また、運営委員会の委員長に日本協会の徳永陸繁が選出された[10]

1976年9月4日に日本ハンドボールリーグ開幕。4節10日間の男女各28試合が行われ、男子は大同特殊鋼、女子は立石電機が優勝。リーグ終了後に行われた運営委員会で第2回リーグの試合方式(2回総当たり)や、1976年度の「2部大会」の実施が決定された[11]。2部大会の上位2チームが日本リーグの下位2チームと入れ替え戦を行う予定だったが、エントリーが男子は三菱レイヨン大竹、神戸製鋼の2チーム、女子は大和銀行のみにとどまったため、2部大会の開催を中止し、そのまま入れ替え戦を行うこととなった[12]。リーグ側は7位の日新製鋼呉と8位の三陽商会が参加。女子は8位の東北ムネカタが参加した。男子の結果は日新製鋼呉がリーグ残留、三陽商会が降格し、三菱レイヨン大竹のリーグ加盟が決定。女子は大和銀行が東北ムネカタに勝利し、リーグ加盟を決めた[13]

1977-78年シーズン終了後の入れ替え戦では、男子7位・日新製鋼呉の残留が決定。8位の三菱レイヨン大竹が公式戦を辞退したため、三陽商会が2年ぶりに復帰を果たした。女子は7位・東京重機と8位・大和銀行が降格し、東北ムネカタと北國銀行のリーグ入りが決まった[14]

1978-79年シーズンの入れ替え戦は女子8位の北國銀行が残留。7位の東北ムネカタが降格し、大和銀行の復帰が決まった[15]。また、運営委員長の徳永陸繁が任期満了に伴い退任し、後任に安藤純光が就任した[16]
2部リーグ開幕 1980年代

1979-80年シーズンは男子が6チームに縮小。女子は1回総当たりへ変更された[17]。この年から2部リーグ(アダルト・リーグ)が発足され、男子は前シーズン下位2チームの大崎電気と三景が加わった[18]ほか、自衛隊勝田、セントラル自動車トヨタ車体、日鉄建材の計6チームが参加。女子は入れ替え戦で降格したムネカタのほか、東京重機工業と和歌山県商工信用組合の3チームが参加した[19]。シーズン終了後の入れ替え戦では、男子は1部5位の大阪イーグルス、6位の三陽商会がそれぞれ残留を決めた。女子は1部7位の北國銀行が残留。1部8位の大和銀行が2部へ降格し、2部1位の東京重機が3年ぶりの昇格を果たした[20]

1980-81年シーズンは男女ともに1回総当たりへ変更。女子1部の日本ビクターはリーグ初となる女性監督に池田二三恵が就任した[21]。シーズン終了後の入れ替え戦では、男子は1部5位の大阪イーグルス、同6位の三陽商会が前年に引き続き残留。女子は1部7位の北國銀行が残留を決めたが、同8位の東京重機の降格が決まり、2部1位のムネカタが1部へ昇格した[22]1981年4月の役員改選で安藤純光委員長の留任が決定[23]

1981-82年シーズンから男子2回総当たり、女子1回総当たりへ変更。2部リーグに中村荷役運輸と大阪ガスが加盟した[24]1982年1月には初のオールスターゲームとなる「第1回日本リーグオールスターゲーム・男女東西対抗戦」が行われた[25]。入れ替え戦では男子6位の三陽商会が2部へ降格し、2部1位の大崎電気が4年ぶりに1部へ復帰。女子は1部8位のムネカタが2部へ降格し、2部1位の大和銀行が1部へ昇格した。また、男子2部の自衛隊勝田が「チームの補強ができず、日本リーグで戦うチーム力がない」との理由で、このシーズン限りで離脱[26]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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